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ジレンマ

textes/notes/音楽

written 2010/2/13


 さて、次の自作曲として、「断絶詩集」の続きとして書く曲については、ぐっとPOP寄りでわかりやすく、シンプルにキャッチーなもの、というイメージを持っていた。
 要するに、「いきものがかり」や「倉木麻衣」みたいなシンプルでせつない歌謡性で、初音ミクを「普通に」使ってみる。いわば大衆的な路線である。
 ・・・しかし、いざ書こうと思うと、なかなか踏み出せない。
 思い上がりに聞こえるかもしれないが、私は「いきものがかり」のような、普通のPOPソングは十分書けるはずである。それらしいコード進行に、それらしいメロディーを組み合わせ、適当にPOPの流儀でアレンジをでっちあげる。・・・POPをバカにするわけではないが、私自身、女性シンガーのJ-POPをいくらか聴いてきたし、そういうものを好む傾向も持っているはずなのだ。
 ・・・が、書けないのである。
 書こうとすると、恐ろしいジレンマに襲われる。数小節ものあいだ素朴な長調が維持されようとすると「こんなの書きたくない」という妙な、狂おしい衝動に突き上げられる。嫌いではないはずの、いやむしろ好きなPOPなのに、「そんな単純なことはやりたくない」という変な気持ちに圧倒されてしまう。

 かつて、「ふつうのPOP」に最も近づいたのは「インヴェンション第1集」(2005-2007)というピアノ曲集を書いたときだった。
 これは、ポピュラー系の語法も用いながら、対位法書法で素材を構築し直す試みで、そのときは楽しんで書いたはずだ。
 いま、ポピュラーなやり方に没入しようとすると、体中が痙攣しそうな拒絶反応が起こるのは、その頃よりも「現代音楽」に近づきすぎ、和声感覚もすでに独自のものを熟成してしまっているからなのだろうか。この独自の感覚は、これこそまさに、音楽的趣味の上で私を孤独にし、人々から隔絶させてしまっているものなのに。・・・私のやっているようなクセの強い音楽は、おそらく、私と同じようにクラシック、現代音楽、ポピュラーミュージックに関わってきたような、似た経歴の持ち主でないと受け入れがたいに違いないのだ。

 繰り返して言うが、私はどんな「軽い」ものでも、POPミュージックを軽んじてなどいない。いやむしろ、倖田來未も倉木麻衣も浜崎あゆみもいきものがかりもthe brilliant greenもglobeも、BONNY PINKもヴァン・ヘイレンも忌野清志郎もプリンスもハービー・ハンコックなどのジャズやフュージョンも、みんなみんな大好きなのだ。
 ヒップホップもロックも私は楽しめるし(演歌だけは聴かないが)、ことにDTMでいろいろやっているアマチュアの方々の音楽を、それがどんなタイプであろうとも工夫を重ねたものに対しては敬意を持ち、共感し、enjoyすることができるのである。
 これは嘘ではない。私はみんな好きなのだ。
 ただ、私が「自分で」そういう「一般的な」音楽をやることを、どうやら私の中の何かが厳しく禁じようとしているらしい。
 ほんとうは、優れた「現代音楽」の作曲家は十分すばらしいポピュラーミュージックを書ける。私の敬愛する武満徹だって、「ギターのための12の歌」でビートルズなどの曲を実に美しくアレンジしているではないか。・・・私がそういう試みを拒絶するのは単なる怠惰か、天の邪鬼なのか。

 これは不治の病のようなものだろうか?
 私はみんなが好きなのに、みんなは私を好きになれない。私は望まないままに、自分をそういう位置に追い詰めずにはいられないのだろうか?(これが私の「悪」の主題である。フロイトが定義した「悪」とは、「愛されなくなること」を貫徹する者のことなのだ。)
 あまりにも寒い孤独に私の生ははりついていて、カルロ・ジェズアルドやチャールズ・アイヴズが(もしかしたら苦もなく)耐えたかもしれないその谷間で朽ちていくしかないのだろうか。

 あるいはこれは父の、姉の呪いででもあるだろうか。


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