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非-意味へと向かう音楽

textes/notes/音楽

written 2007/3/10


何年か前からストラヴィンスキーに本格的に惹かれ始め、CDを買い漁っていた。が、その割にはこの音楽の魅力の本体をつかむことができず、本サイトの批評に記事を書いたのも、つい先日だ。

なぜ人は「春の祭典」ばかりを賞賛し、後年の新古典主義時代・十二音主義時代の作品については沈黙しているのか? この謎について、ずっと考えていた。
私がいま、晩年の「レクイエム・カンティクルス」を聴きながら結論するのはこうだ。
ストラヴィンスキー自身が何を考えていたかはわからないが、彼の音楽は「意味する音楽」からその無駄を剥ぎ取っていき、意味の彼方へ、意味に従属しない音楽の純粋さへと、容赦なく突き進んでいったのだ。これがストラヴィンスキーにおける「ラジカルさ」の本質だ。

しかし、人は意味なしに落ち着くことができない。人はいつも意味を求めてやまない。意味の向こうにあるもの、それを人は言及することができない=語り得ないので、生の無意味さと同様、忌避すべきものなのだろう。
人は「春の祭典」には意味を求めることができた。原始的なエネルギーの噴出、暴力的なするどさをきらめかせながら、複雑なリズムで生き生きと、古代の舞踊をおどる、その生命感の強さ、しなやかさ。あるいは文明的な洗練の破棄、破壊、など、など。人は一定のイメージに沿って「春の祭典」を語ることができる。そのような作品であるために、これはストラヴィンスキーの膨大な作品の中で、最も愛されるものとなった。
後年の新古典主義は極めて不評だが、かろうじて人気があるらしい「三楽章の交響曲」はストラヴィンスキー自身の表明によって「戦争」のイメージと結びつけられ、音楽内容の攻撃性と「野蛮な雰囲気」とあいまって、音楽は「意味」と結びつき、「語りうるもの」と化したのだ。
しかし、私の考えるストラヴィンスキーのラジカルさ、つまり非-意味への跳躍、という点でいうとこれらのポピュラーな作品は「まだ甘い」のである。
新古典主義時代の作品は意味を徹底的に虚構化することによって、意味というなまなましさを殺した。だがそれでも、仮面としてまとったロマンチックな「意味」は、そこでもときとしてラジカルさの淵をはなれ、甘さに流れていきそうになってしまう。
ストラヴィンスキーの晩年の作品はさらに「意味」から身を引き剥がす方向に進んでいたと思う。

さて、意味の向こうには何があるのか? 無意味であればいいのか?
無意味であればいいというのなら、ランダムな音素を羅列するような20世紀の実験的な「現代音楽」が最高ということになってしまう。しかしそうではない。
芸術が目指すのは「無意味」ではない。「意味の不在」は何かの欠落である。そうではなくて、「意味」なしには生きていけない人間の言語活動の本質=記号作用のシステムを通過しながらも、それが非-意味となってしまう地点、いわば「語り得ないもの」の極限へと突き抜けなければならない。
その地点では「音」が純粋に「音」となるだろう。と言っても、音楽がめざす最終地点が「音」なのではない。クラシック音楽では、作曲家はいつも「音」を直接書くことができないし、そもそも音楽とは音の芸術ではなく、音相互の関係性による芸術なのだ。このような関係性が純化された音楽へと向かっていくある種の姿勢、それが書かれたもの/書く行為、エクリチュールの核心である。
ピカソは「晩年になってようやく、自分は子どものように描くことができるようになった」と語ったという。 子どものように描くこと、それは意味の産出としての絵画技術の洗練では無く、描くという欲動の素朴で乱暴な現出、非-意味のさなかにいきなり身を跳躍させることなのではないか。

そして、生きるとは別の仕方で存在することとは、そうした地点へと跳躍しようとする無限の試みの内に在ることなのだ。


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