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社会の音楽への不適合について

textes/notes

written 2021/4/18


 昨日公開した新作「Their Metallic Hearts - feat. 巡音ルカ」は、変拍子だらけの変則ヘヴィメタルながら、割とエモーショナルな旋律性も持っているので、今回は幾らか世間での「受け」がいいかもしれない、と思っていたのだが、これが何と、笑ってしまうくらいの無反応で、SNSでもほぼ完全スルーされてしまった。やはり変拍子だと一般的な聴き手には上手く乗り切れず、私が「エモーショナル」と考えた箇所も多くの人にとってはそうではなかったのかもしれないし、そもそもSNSで私の周囲に多くいるクラシック系の方々はヘヴィメタルなんかやかましいだけで、とまったく聴く気にもならないのかもしれなかった。
 相変わらず世に受け入れられない私の音楽なのだが、そういった点について詳しく書こうかな、でも書いたら私の中で憂うつさが更に充満するだろうし読んだ人も不快になるかもしれないしな、と迷っていたが、今回のことですっかり呆れてしまったので、せっかくだから書くことにした。

 私はふだんは基本的におとなしく真面目っぽい人で、他人になかなか胸襟を開かない面はあってもそれほど人付き合いが悪いわけではなく、隙があれば変な、くだらないことを言って人を笑わせてみたい、と脳を活動させているような男である。たぶん。
 しかし音楽に関する社会性とか他者とのコミュニケーションとなると全然ダメで、近年は道内在住の(あるいは今はコロナ禍で行けないが東京の)クラシック系の音楽家や、札幌のローカルなシンガーさんなどとも幾らか交流を持とうとはしているものの、ようやく少しは、何人かは知っている、くらいのレベルだ。
 クラシックの演奏家さんたちはたぶん、音大の頃から「のだめカンタービレ」にあったような交友の輪があるのだろう。作曲家もほとんどは音大・芸大出身だろうから、学生の頃から同年代の演奏者とのつながりがあるに違いなく、そもそもそんなものを全然持たない私とは、最初から立っている土俵が違う。
 クラシック音楽では作曲行為と演奏行為が、別々の人間に委ねられることが多いため、こういった「音楽家たちの輪」の蚊帳の外にいる私には敷居が高い。10年くらい前にエクアドル在住日本人のヴァイオリニストさんがtwitterで見つけてくれて突然コンサートで私の曲を演奏して下さったのが最初で、それ以来、いくらか私の曲は演奏される光栄に浴したのであるが、拙く演奏しにくい(これは楽器のことをよくは理解していないからでもあるし、ふだんコンピュータで曲を作っていてコンピュータには何でも演奏できてしまうからでもある)私の曲なんか練習して頂いて、もの凄く申し訳ないような気がしてしまう。
 
 一方では、キーボード(ピアノ)ならほんの少し弾けるがバンドに属さなかった私は、ポピュラーミュージックのいかなる社会ともつながりがなく、私のは本当に、20歳頃に始めたときから現在に至るまで、コンピュータ(当初はハードウェア・シーケンサーを使っていた)で作って演奏もさせ、自分でそれを聴いて楽しむという、DTM(デスクトップミュージック)で完璧に自己完結してしまう一連のプロセスだけを音楽的営為のすべてとしているのである。
 しかも、MIDIの時代から音楽をやってきた私は、サウンドに対する強い志向が無く、J. S. バッハの「フーガの技法」のように、楽器・音色の指定を欠いた抽象的な音楽をよしとする基本前提を出発時から持っていたようで、最近になるまで、DTMをやる人間としては異例なまでにサウンドに無頓着だった。高価な哲学書とかも読みたいからソフト音源などにもあまり金を使ってこなかったし、ミキシングとか演奏とか音色プログラミングとか、あるいはアレンジまでも、そういう面倒なことは一切合切誰か他の人にやってもらいたいくらいなのだ。

 こういう独特な私の経歴や志向に追い打ちをかけて非-社会的な音楽へと向かわせているのは、私が書く音楽の内容である。現代音楽への愛着はあるものの、他にもジャズやロックや一般的なPOP、あるいは西洋古楽や世界の民族音楽にも同じように愛着があって、そうした自分の美意識を総括的に満足させるものを目指すとやたらと複雑に混合しあい、結局どの文脈にも収まりの悪い音楽になってゆく。音楽というものをやたら広く捉え、すべてが芸術である、と考えている私には必然なのだが、そんな音楽観を共有してくれる人に私は会ったことがない。
 したがって、すべからく私の音楽はどの音楽社会においても異物に他ならず、社会的に馴染めない孤独感だけが、私に残るという経緯である。
 
 しかし、本来音楽というものは、社会的な形成物である。人里離れた山奥で一人で歌う場合などは例外だが、ふつう、誰かが歌を歌ったりすれば、それを聴ける範囲に存在している他者が聴き手になる。空気を振動させる「音」はその「場所」に浸透しその「時間」を形成するものなのであって、音楽するということは即ち、音楽を複数人の間で、あるいは一定程度の大きさの社会の中で「シェアする」活動に他ならないのだ。
 そう考えてみると、「楽譜においての思考」にずんずんとはまっていった近代以降の西洋(クラシック)音楽はいささか「歪んでいる」と言って良かった。楽譜=エクリチュール尊重を極めていくと社会内-音楽としての(大衆的な)パロールとしての側面は次第に捨てられてしまい、従って、20世紀以降、クラシック系の作曲家の音楽はほとんど「誰も聴かない音楽」へと向かっていったわけだ。音楽なのにシェアされない、というのは社会内の器官としては相当に病んでいる。
 現代詩にしても現代美術にしても、20世紀以降の芸術の試みというのは、旧知のコンテクストから素材(言葉、色、音など)を切り離して改めてそれ自身を問い直し、新たな意味の地平を切り拓くということなのだと思っているが、しかし、日本国内の「現代音楽」界隈を見ていると、そこにはそれなりに小社会でのコンテクストがあって、「こういうのが今のメインストリーム」という暗黙の了解が彼らのあいだにはじんわりと存在しているらしい。私が全く評価していない近藤譲氏の著書『線の音楽』がバイブルとして崇められ、例えば川島素晴さんの音楽?のようなものが一個の権威になっているようなこの界隈の状況を見ると、私には嫌悪感の方が強く、やはり私の居場所としての社会はここにはないのだった。
 そもそも、フィリップ・グラス氏の作品や吉松隆氏のそれのような、私には何の価値も見いだせないものがクラシック界の保守的な層には大変喜ばれているという事実も、この「社会」を私には全然理解できないものにしている。
 しかしこうした「傾向」がやはり現代音楽のコンテクストを支配しているので、本来の現代芸術の主題であるはずのラジカルさは結局隠蔽されてしまっていると思う。

 そんな感じで、音楽のどの「社会」にも馴染めない私の傾向は、今回に限らずいつものことながら、ひどい孤立状態に導いている。そもそも自分一人で完結するDTMをやっているから、これはある種の「引きこもり」なので当然ではある。もっとも、他のDTMクリエイターはそれぞれの社会に馴染んでいるようなのだが。
 社会不適合そのものであるような私の音楽は、それでも、いくらか「ウケ」そうなことをたまに狙ったりもするのだが、ふだん私の偏屈な音楽を支持して下さっているごく一握りの(たぶん片手で数えるくらいの)人々からは逆にがっかりされるようなのだ。
「そのうち、普通にヒットするような普通の曲書いてみる(そうして儲けてみる?)かなあ?」
なんて言うと、
「いやいや、そういう方向には行かないでください」
と、本当に止められたことがある。
 しかしただしい音楽「社会」に属さない私が「普通のヒット曲」を作れるかどうかは、はなはだ怪しいと思う。

 音楽は本来「社会的な営為」である、と繰り返しておこう。その意味で、私のやっているようなものはずいぶんと「おかしなこと」に過ぎないし、音楽「社会」にとっては完全に無意味なクズなのかもしれない。  だが全体として大きな波動のうねりの中で個々の粒子が勝手なことをやっていたとしても、それは他者(やっぱり粒子)には一定程度、何らかの作用を及ぼしているものなのかもしれない。いずれにしても大きな統計の中ではまったく無視されるようなディテールにすぎないのだけれども、まあ、歴史というものが、もともとそういうものじゃないか、と納得もする。無視してもいいようなディテールにも、それはそれで、意味があることには変わりはないのかもしれない。歴史に登場しない個々の人間の生に意味がなかったわけではないのと同じように。


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