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2020年、コロナの年

textes/notes/雑記

written 2020/12/31


 今年2020年はとにもかくにも、地球上の多くの人びとにとって新型コロナウィルスの年であった。
 日本で急速に騒がれ始めた2月の末頃からは首相の思いつき(人気取り)で1ヶ月以上もの期間の全国一斉休校に入り、春には不要不急の外出自粛要請、国からテレワーク等の強い推奨があって、一時期は街から人が消えた。欧米のような強制力のあるロックダウンの指令は法律の制約上出来なかったものの、日本人は強い危機感を共有して「自粛」の冬眠に入った。私たちにとっては未だ経験のない未曾有の事態が現出し、生活は一変、社会はこの先どうなってしまうのかという恐怖に囚われた。
 一時的にせよ経済活動が停止するという、世界中で生じたこの画期的な大事件は、今までのような金融レベルで生じる危機ではなく実体経済のレベルでの深甚な危機という新しさによって、誰もが解析しきれておらず、もはや株価などは実態からかけ離れた数値を示して社会経済を示す指標としては役に立たない状態である。
 私もこれがどういうことなのか解釈しきれないという焦燥に駆られて、いくつかの雑誌に掲載された文章を参照し、後日ジャック・アタリの『命の経済~パンデミック後、新しい世界が始まる』のような本も読んでみた。これによると、新型コロナウイルスによるパンデミックが数年で終息するとしても、「元の世界に戻る」などというのは浅はかな幻想に過ぎず、新しい感染症が次々と出現することによって、感染症を常に視野に入れ医療・衛生・社会福祉に最大の力を注いだ新たな社会態勢に進まざるを得ない・進むべきである、ということだ。


 それにしても、インターネット上には非常な喧噪が繰り広げられた。日本語のネットコミュニケーションの場においても、国はもっと国民や企業に対し強力な強制力を持つべきだというファシズム・全体主義的主張や、ちゃんと自粛しない者は厳格に罰するべきだという警察国家待望論、さまざまな陰謀論、この感染症で最も重体化し死亡しやすい年寄りは、どうせ先が長くないんだから死んでもしょうがないんで、気にせず経済を優先せよという人命軽視の論調などが跋扈した。以前から傾向が強まっていた新自由主義、全体主義志向、経済至上主義、反-民主主義、反-知性主義はこのパンデミックによって一挙に強烈に露出した。
 アベノマスクなど間抜けな政策しかできない安倍晋三首相は退陣したが、菅義偉新首相-二階幹事長によるGo Toトラベル、Go Toイートなどのキャンペーンは、つまるところ「国民の何割か死んでも構わないから経済を回そうぜ」という姿勢が露骨であり、かつての「国体」の代わりに「お国の経済」のために一億火の玉作戦、玉砕覚悟していざ突き進まんといった戦時中を思わせる無謀な集団発狂の様相を呈しつつある。
 日本ではPCR検査数を抑制しようという奇妙な方針が当初から目立ち、「検査を増やせば陽性者が増え、医療崩壊するからダメだ」なんていう、どう考えても論理が成立しない主張を一部の専門家(?)だか御用学者だかが喧伝し、そんな理屈にならない屁理屈(数字上の、目に見える陽性者を減らしても実際の感染者数は増える一方になるはずではないか? 結局重症者の多発によってかえって医療崩壊を招く)に感心して同調する人びとも一定数いて、訳の分からない混沌に日本社会のディスクールは波を打った。
 コロナなんてただの風邪だ、インフルエンザに比べると死者だって少ないじゃないかと、欧米に比べて重症化率・致死率のグンと低い日本(もっとも、東アジアが全般に低く、その中では日本は高い方)での統計情報に基づいてコロナを軽視する主張も国内では根強い。しかしこの感染症による「重症」とはもはや自力で呼吸できず、人工呼吸器をつけるほどの事態であって、そうなると一人の患者に10人も医療従事者が付かなければならないから、たとえ「病床」が豊富でももともと人手不足だった看護師は一気に不足する。インフルエンザではこんなことにはならないし、新型コロナウィルス感染症はどうやら、軽症だと思っていたら突然急激に悪化し、ほんの数日でいきなり死んでしまうといったこともしばしば起きるらしい。また、軽症で済んでも、何らかの後遺症が延々と続く事例もあるという話しも聞く。
 あまつさえ、自民党は無駄だから病床を削減せよなんていう施策をやってきたところであり、しかも何と現在ですらこの政策を転換していない。医療軽視の政治は、コロナ禍で「医療者に感謝を」などと言ってブルーインパルスを飛ばしたりもするものの、多忙を極め周囲の差別にあっても献身的に働く医療従事者たちがボーナス大幅削減の目にあっているのにほとんど何もしようとせず、相変わらず余計なことにしか税金を使わない。

 私の場合、この感染症にかかることは怖くないし、結果、死んでしまっても構わない。それよりも自分が感染すると職場や周囲の人びとに多大な「迷惑をかける」ことがどうにもイヤである。無症状の感染者が知らずに感染を広げ、基礎疾患のある人やお年寄りを死に至らしめてしまうというこの感染症は、当初より、優れて倫理的な問題を提示していた。感染症問題が露出するのは、自己の健康がただちに他者の健康にひどく影響してしまう社会的厄介さ、責任というただならない関係性である。エマニュエル・レヴィナスの「わたしを殺すな」と語りかける<他者の顔>は今や「わたしにうつすな」とも言ってくるようになった。
 このパンデミックは、鋭い倫理の、希有な問題提起なのである。
 レイシズム、全体主義、あまりに過大な経済格差、弱肉強食主義、性急すぎる「淘汰」論、他者への暴力を志向するサディズム、狂った「正義」の暴走、民主主義の断末魔、分断、分断、分断・・・。
 現在社会を蝕むあらゆる病理がここに一挙に拡大して露呈し、病んだ<倫理>が不毛な戦争を惹起して、すべては「滅亡」を想起させるように思えた。

 8月12日に完成した「滅亡ハレルヤ」は、このような危機的状況の中で書いた曲だった。「Complex Source Code」(2/16)で先に試していた「言葉重視」の音楽パロール実践の発展形でもあり、言葉と連携することによってこれまで等閑視してきた「社会への参加」を試みたものでもあった。
 しかし、「滅亡ハレルヤ」もまた、その意味では失敗であり、好意的に迎えられることがほとんどなく、私はまたもや「社会」のはぐれ者に過ぎないのであった。

 今年前半には「ピアノのための23の前奏曲」に含まれるピアノ小曲を、いくつも書いた(「The Sky」「Unusual Life」「MASTANGO」「Multiple Meanings」「Popsong」「Enka Strikes Back」)。
 現代音楽の文脈とポピュラーミュージックの文脈とをいかに対比させるか、というテーマに思い悩みつついろいろ書いてみたが、あまり上手くいったとは言えない。
「滅亡ハレルヤ」もその路線上にあったが、社会的メッセージでもあるこの作品もほとんど反響を得ることがなく、なんとなく願望が潰えいつもの孤独感に戻ってきて、私はしばらく作曲を離れることにした。

 今年の8月後半以降は、私はやたらと本を読むことになった。
 哲学書や社会学書だけでなく、小説、それも大衆小説系のものを突然次々と読み始めた。とりわけ『黒い画集』に感銘を受けて松本清張を読み漁り、次いで桐野夏生さんを発見して興奮した。『グロテスク』『OUT』『日没』『抱く女』『ナニカアル』『残虐記』など、彼女の小説はドストエフスキーのような苦痛に満ちて、かつ、一般的な形式の枠を破壊して自由にあふれ出すようなエクリチュールの野放図さ、いわゆるハイカルチャーとサブカルチャーとの領域を好きなように縦断する自在さとに、作曲家としての自分の方法と相通じるものを感じいたく共鳴している。


 さらに出会った小説家、川上未映子さんには驚愕した。まだ2冊(『乳と卵』『ヘヴン』)しか読んでいないが、いずれも圧倒的に最上級の芸術作品である。この人は、現代の天才なのではないかと思っている。


 他にも林芙美子、岡本かの子、夢野久作、ネルヴァル、ミシェル・ウエルベックさん、テッド・チャンさん、宮部みゆきさん、東野圭吾さん、貴志祐介さん、平野啓一郎さん、村田沙耶香さん、辻村深月さん、円城塔さん、江國香織さん、柳美里さんなども読んだ。
 哲学書ではマルクス・ガブリエルさんの『なぜ世界は存在しないのか』に多大な感銘を受けた。
 読書に明け暮れながら、音楽と全然離れてしまったのかと言えばそうでもなく、文学における作品形成のあり方を研究しつつ、音楽の構築との対比などに思いを馳せる。
 今は、世間に溢れ交錯するさまざまなディスクールと、個々のパロールのあり方との様態に関心があり、それは文学も音楽も同じだ。
 来年になったら、また作曲もするだろうと思うが、大量に購入した本が山積みになっているので、まずはどんどん読み進めなければならない。

 仕事面でも生活面でもコロナによって激震が走った1年で、それに尽きるが、もともと自宅引きこもりで作曲にしても読書にしても孤独な営為に浸り続ける自分の様式は、あまり変わっていないのかも知れない。ただ、ときおり札幌のライブ・コンサートに行っていたのが、結局今年は行くことが出来なかったし、曲を出品予定だった北海道作曲家協会主催による9月の「北海道の作曲家展」コンサートも中止になったのは悲しかった。来年は出来るのだろうか?
 コロナ情勢によって著しく困窮に陥っている音楽家、イベント業関連、観光業、飲食店などに比べると自分は安穏としていてそれは非常にラッキーと言うべきなのだろう。多少給料が下がる(たぶん来年はもっと下がる)ということはあるものの、もっと困っている人びとにはなんだか申し訳ないような気がする。
 巨額の税金を奪った国が、大企業ばかり優遇するのではなく、もっと困っている人びとのためのセイフティーネットの構築に力を入れて欲しいと思っている。
 来年、多くの人びとにとって事態が良い方向に向かいますように。
 2020年12月31日。


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