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桐野夏生『日没』感想

textes/notes/文学

written 2020/10/11


以下は、「ブクログ」に書いた桐野夏生さんの最新小説『日没』のレビューの転載である。この本は現在の日本にとって重要な意味のある文学だと思い、1時間以上もかけてレビューを書いたので、このサイトにも転記しておくことにした。

2020年9月29日第1刷。最近矢継ぎ早に読んでいる作家桐野夏生さんの最新長編小説である。しかもどうやら、「表現の不自由」の近未来を描くという、まさにタイムリーな、現在の滅び行く日本の病理に直接対峙する内容らしいので、非常に期待して購入した。
が、読み始めて物語世界の薄いシュールさに戸惑い、「大丈夫かな」と心配になった。カフカ、ブランショ、オースター、安部公房、アンナ・カヴァンに近いような、現実感から遠いような状況が直ちに開始し、物語としてどうなのか、心許ない気分になったのだ。
基本的には現在の日本なのだが、ネガティヴな作風を咎められた主人公の女性小説家が、「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」なる官公庁から召集され、ソルジェニーツイン風の収容所に監禁されるという設定だ。この辺がどうも、自分の現実感覚としては飛躍的すぎるように感じられて、不安になったわけだ。
映画「時計仕掛けのオレンジ」の主人公が洗脳され、「カッコーの巣の上で」の主人公がロボトミー手術を受けたような残酷さで、「下品な」小説家の「更生」が押しつけられる。しかも、そこに出口があるのかどうか極めて不透明だ。他にも、政府批判や猥褻な作品を書いた作家たちも収容されているらしい。
最初の方で所長と交わされる(永久に噛み合うことの無い)文学論も興味深くはあるが、ちょっと唐突な感じがした。
「1984」のようなディストピアを描いたこの小説は、しかし、読み進めるうちに、
「これはまさに、今の日本社会の状況だ」
と共感させる迫力を帯び、物語後半は焦燥感に駆られ、主人公の幾度にも渡る敗北の屈辱を共に味わいつつ、圧倒的な感銘のうちに読み終えた。
これは、時代に真っ向から切り結んだ、リアルな、狂おしい苦痛に満ちた、大変素晴らしい傑作小説である。
あまりにも非人道的な収容所での生活は、一見、現在の日本とかけ離れているように最初は感じられるのだが、そういえば、我が国の「入管」では現にすこぶる非人道的な暴力行為が横行しているらしいという情報を最近よく見かけるし、たぶん自分が直接見てはいないものの、この国では現在もどこかでは、このような暴力が「公」によって駆使されているのかもしれない。
時代の不穏さに関しては、開巻1ページ目にしてただちに触れられている。

<私は基本的に世の中の動きには興味がない。というのも、絶望しているからだ。いつの間にか、市民ではなく国民と呼ばれるようになり、すべてがお国優先で、人はどんどん自由を明け渡している。ニュースはネットで見ていたが、時の政権に阿る書きっぷりにうんざりして、読むのをやめてしまった。>

最初はなんとなく読み過ごしてしまったが、読み直してみると、これこそが安倍政権7年間においてどっぷりと病に蝕まれ異常そのものとなった現在の日本の姿である。
テレビニュースが政府批判をするとただちに自民党からの抗議電話が延々と殺到し業務が出来ない事態にまで追い込まれ、それによって大手マスコミは屈したのだが、それにしても、このようなファシズムむき出しの政権を支持する大衆が少なからず存在するとともに、問題意識を自ら封じてしまった無関心層がその無言によって政権支持に加担した。総体的に国民の過半数を超える無教養・無知性な人びとが教養ある知識人を迫害しにかかっているのが、今の、滅亡プロセス真っ直中の日本である。
この小説の中にも<善意がはびこって世界が息苦しくなった>といった文があった。この「不寛容な正義」がいかに暴力的なものであるのかは、今年のコロナ禍における「自粛警察」「感染者狩り」等によってあからさまになった。この小説はコロナ以前の作品だが、事態はさらに深刻を極めているのである。
ネガティヴな作品は禁止、ポジティヴな作品だけが良い。という妙な価値観が蔓延していることは、20世紀末頃から私もじわじわと感じていた。それがついに、「正義」「公」を振りかざした行政によって、この小説では暴力そのものとなっている。
この本があまりにもエキサイティングでアクチュアルな問題と苦痛を吐露していることに驚き、「週刊読書人 2020年10月2日号」( pdf販売サイト )を購入し、桐野さんと星野智幸さんの対談を読んだ。ここには、本書が生み出された作者の思いなどがストレートに語られており、興味を感じた方は是非読んで欲しい。
この本の発想は東日本大震災以後の世情から来ているようだが、やはり、「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」事件も強く意識されている。

<(桐野)(表現の不自由展は)表現の自由を問題にしているのに対して、「その表現で傷つけられた人間のことも考えろ」と激しく反撥される。全然違う話にすり変わっています。問題としている部分が根本的に違ったままで、会話が成立するはずがありません。>(前掲、週刊読書人)

そう、多様性に対する寛容さがいったん失われてしまえば、「話し合い」はひたすら不毛なだけのものとなり、世は全体主義に向かうしかないのである。
こうしたディスコミュニケーションの苦しみが、この小説を覆い尽くしている。
まだそんなに多く読んでいないが、この桐野夏生さんという小説家は、「現代のプロレタリア文学」とまでときおり言われるような、現代社会の生活上の苦痛を中心に描出しているように思われる。それは、人の心の傷口に手を突っ込んでグリグリとかき回すようなスプラッタ的残酷さを帯びており、恐らく多くの読者は、「面白いけど、苦しくて辛すぎる」と思うのではないだろうか? この作家は一応「エンタメ系」に分類されていて作品は書店にもよく置かれているし、例えば島田雅彦さんのような完全な純文学系作家と比べれば遥かに売れ、読まれているのだろう。しかし、「大人気」とまでは決して言えないのではないか。
いみじくも、2001年の新聞上のコラムで彼女が書いているのを見かけた。

<もともと私は文句体質である。理不尽な目に遭ったり、不公平を感じたり、不透明な出来事が生じたりすると、つい文句を言いたくなる。>(「女の文句」:エッセイ集『白蛇教異端審問』所収)

昨今よく見かけるクレーマーというのとは違うのだろうが、日々出会う悔しさ、苦しさ、痛みに対し、怒りを込めて反撃を試みようとしている、一人の女性の心がここにある。
もちろん、その感性は私とは全然異なったものだろう。しかしその、ドストエフスキーにも似た苦しみの文学作品を通して、読者はレヴィナス風に「他者の苦しみ」を引き受けることを迫られるのだ。それはつまり、極めてラジカルな、あまりにも人間的な局面を形成するのだ。

本小説は最後に「え? え? やっぱりそっちなの?」と驚かされるのだが、前掲の「週刊読書人」の対談によると、作者は再稿においてその「Uターン」となる15行を書き加えたのだと言う。映画「パピヨン」のように最後は自由の空/海が広がるのではなく、今この社会には明るい未来など片鱗も見えて来てはいないのだ、と言うかのように。

<むしろ、息苦しさはこれからもっと酷くなると思います。今の現実が、一番のホラーです。>(前掲「週刊読書人)

エンタメか純文学かといった区分けなどどうでも良いと私は思っているが、桐野夏生さんの小説はドストエフスキーやカフカのような、時代を反映し緊張感に満ちた優れた結実であり、この現実社会の歪さと、たとえば松本清張のような昭和の大作家と同様に戦い、しかし女性作家として全く異なる感性と方法で戦おうとしている。
完全におかしくなって滅びようとしているこの社会との絶望的な戦いがこの先どのように展開されていくのか、私は息を詰めて見てゆくしかない。


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