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心引き裂くポリフォニーのために - Multiple Meaningsの解説

textes/自作解析

written 2020/5/21


音楽の場合、心的な作用のほとんどがいまだ科学的に解明されておらず、人々は経験則に基づいてそれをあたかも言語の類似物であるかのように操作してきた。
互いに音楽的なパロールを交わしつつ、それを参照しあい、「昨日みんなが話していたようなその話し方にのっとりながら」音楽上の個別の発明・発見が蓄積されてきている。
現在のように一人ではカバーしきれないほどの、星の数ほどの多彩なジャンルに分岐した膨大な音楽が存在している状況では、一人ひとりが自分で「好みの音楽と出会う」体験を積み重ねた結果として形成された性向は、互いに大きく異なっており、何が最上なのかという絶対的基準が共有されることはない。
自らの音楽的パロール産出に当たっては、意識するしないに関わらず、やはり各人の「好み」が第一の基準となる。自分の作法を理論づけたつもりでも、その理論には、経験が形成してきた特定の音楽要素への「好み」によるバイアスが既にかかっているのであり、この自己限定を乗り越えて先に進むことは容易ではない。この場合に、もっともらしい理屈のはずが、単に自分の経験の重要性を盲信し、自己防衛のために必死に訴えるだけの言説になりがちだ。

今回「23の前奏曲(2011-20年)」の新しいピースを作成するにあたって考えたのは、「Existence Wheel(2019年)」を端緒として探究してきた最近の「ブロック作曲法(楽節をブロックに分けて作りこむことにより。それぞれのブロック同士が対立しあい、ブロック間の境界においては断裂が生じうるという方向性)」をクラシック音楽のスタイルに適用しようとしてなかなか上手く行っていなかったので、今回はこれを更に進めることであった。
タイトルは「Multiple Meanings」。
意味論的な多重性・多様性・多元性をピアノ曲において実現しようと思った。

Multiple Meanings
2020/05/21完成
MP3: http://www.signes.jp/musique/Preludes/MultipleMeanings.mp3
楽譜: http://www.signes.jp/musique/Preludes/MultipleMeanings.pdf
掲載ページ: http://www.signes.jp/musique/index.php?id=739

そこでまずは、互いに異なる場を、とりあえず自分が好み・親しんできた3種類の音楽カテゴリに設定してみた。「A. 官能性」「B. フーガ」「C. ダンサブルなパターン反復」の3つである。
さらに、かつて「残酷な小曲集」で発見したような前-近代性としてのユニゾンによる疑似-旋法的な旋律を想定してカテゴリ「D. 野蛮」を加えてみる。のちに、この「D」に、より強い「無-意味」をd2要素として追加することになる。
図1にカテゴリの配置を示してみた。
カテゴリAとカテゴリDは接することが無い。この点については後述する。

パロールと構成

基本的に楽曲は即興的にスムーズに紡ぎ続けられる自覚的なパロールによって進行する。その上で、各カテゴリへ断裂を超えて推移し、多様な全体を劇作家のように「構成」しようとする。
私が基本的にはパロールの有機的な継起(持続性)を優先しようとしているのは、おそらく、モーツァルトへの耽溺を自分の音楽体験の最初期に、決定的に経験したからだ。この継起は、走行する「主体/同一性」を持続しながら、そこに様々な変化をゆたかに蓄えてゆく。すべては主体に還帰する、だが、主体とはつねに「動くもの」(ベルクソン)であるため、最初と最後の主体はもはや同一とは言い難い。それはとどまることなく世界と作用しあい変容し、自他の境界線をその都度引き直し続ける主体の宿命でもある。
この走行する「話す」主体と、メタ次元から全体を構成しようとする「書く」主体とのあいだの抗争が、創作における最大のテーマとなって来るはずだ。
「構成すること(コンポジション)」は例えばストラヴィンスキー(素材に対するクールなまなざし、素材を超えるフモール)においても顕著であり、かなり以前から私はそれに憧れたものだったが、当時はまだそうしたメタ次元の主体を活用することができず、ようやく最近になってその次元に立つことが出来るようになってきたところだ。

A. 官能性

出だしの部分は私がある時期大きな影響を受けた中期シマノフスキ、スクリャービン、メシアンおよびドビュッシー、ラヴェルといった音楽カテゴリに由来している(譜例1)。
このトリルと、16分音符の飛沫のようなモティーフ(a)は曲全体に頻出し、情動的な「動き」を生み出して、当然であるかのように表現主義的なクライマックスに到達する。(譜例8。147〜152小節辺り。この辺が異様に難しいピアニズムとなったのは、ここを書く直前にシマノフスキの「メトープ」の楽譜をしばし眺めてしまったせいだ。)

官能的というのは、私が音楽との関係において官能的であるということだ。モーツァルトもそうだし、ドビュッシー、ラヴェル、フォーレなど、好んで聴いた多くの音楽は官能的であった。
情動作用が高揚していくとそれは絶頂へと向かって突き進む。私の音楽は表現主義的と言われることが多いが、別に何かを表現したくて音楽を書いているわけではなく、音楽要素との関係において、そのような官能の爆発を欲望しがちなのである。

B. フーガ

「モーツァルト好き」に続いて高校生の頃からのめりこんだのがJ. S. バッハ。グレン・グールドによる平均律等のCDを無数に聴き返し、自らピアノで弾いてみた。その後自分でも、バッハを模倣したものや、印象派ふうの近代和声や無調を用いたフーガを試作してきた。
J. S. バッハによるフーガは、知的に構築された対位法のみではなく、旋律性や和声によって極めて人間味豊かな水平方向の充実も同時に達成されていることに魅力がある。
私はフーガ的なポリフォニーについての哲学的な意味を思索し続け、ミヒャエル・バフチンがドストエフスキーの小説について、その作中人物たちの複数の視点を、それぞれに深さと重さを十分に示しつつ経めぐっていく多層的なテクストとして「ポリフォニー」と呼んだことをも参照し、「単に模倣しあい、つねに同一化に回帰し全体性なる調和を目指していくような古典的対位法ではなく、むしろ互いの差異が際立ち、もはや調和しえないまでに分裂してゆく、心引き裂くような『他者の対位法』」を目指すようになった。
具体的に私の経歴を略述すると、2001年の「前奏曲 ト短調」あたりまではJ. S. バッハを単に模倣しようとしていて、直後の「忘れられた歌」では近代的な和声を試み、2002-2003年の4つの「前奏曲とフーガ」ではさらに独自の対位法音楽を目指そうとした。そうした上で、バッハ式に則りながら色々な音楽を試みた「インヴェンション第1集(2005)」が結実したが、その後はもっと無調のカラーを強め、古典的な線的対位法の書法は、最近ではあまり採用しないようになってきている。

今作においては、融和しえない「他者との出会い」の衝撃性と不協和を実現するために、無調を基本とし、それでもバッハ型の線的な模倣対位法を使用したのが 小節からの楽節だ。
4音(A-C-G#-D)による変形しやすい主題(b)に対して、スタッカートによって際立つ対旋律(b4)が布置されるが、この対旋律はそういえばロック・ギターのリフのようでもある(譜例3,4)。
フーガ主題はリズムが比較的自由に変奏されるほか、反行形(b1)や音程を2倍にしたタテ2倍形(b2:103小節バス)がのちに登場し、楽曲の最後にのみ、反行形の逆行形(b3:165小節)も出てくる(図2)。

フーガも無調も、緊張を強いるところがあるので、無調のフーガは相乗効果によりひどいストレスを生みやすい。あまり長時間聴き続けると、辛くなってしまうのだ。
フーガないしそれに類する高度に対位法的な楽曲はもともと短時間に高密度の音楽を凝縮するものでもあり、今作では明らかにフーガ的な個所のあいだに、まったく異なる語り口を挟むことによって、メリハリを強調した。

C. ダンサブルなパターン反復

特に20歳前後の若いころに傾倒したハービー・ハンコックのジャズ・ファンク的なリズム・シーケンスの反復は、エレクトリックな今日のダンス・ミュージックにも連綿と続いてきた巨大な水脈の中にある。もちろんミニマル・ミュージックと呼ばれるクラシック音楽系のいちジャンルともつながっているのだが、延々と続くパターンによる音楽は、たとえば12-3世紀のペロタン(ペロティヌス)とか、アフリカ等の民族的な伝統音楽にもよく見受けられるものであり、そう考えると人類にとって極めて普遍的な音楽スタイルの一つと思われる。
8分の7拍子になったところからリズミカルなパターンの模索が始まり(譜例5)、低音域に達した59小節目の音型(c)で安定する(譜例6)。
このリズムや、その簡略形の上で、他の主題(a、b)が復帰してくる。

以上の3つの「好きな」カテゴリの組み合わせでひととおり曲を書いた後、しかし、それでは単に「好きなもの」を並べただけで、ここには結局他者性が足りないのではないか?という疑問にさいなまれることになった。 そこで私が付け加えたのが下記の「d2:無-意味」である。

D. 野蛮と無-意味

意匠をはぎとった、原初的なむき出しのもの、アントナン・アルトーや映画監督パゾリーニと共に、それに私は惹かれる。

原始的なものということで、私は中世およびそれ以前のヨーロッパ音楽(を再現したもの)に一時期引き寄せられ、「残酷な小曲集(2008年)」という作品に結実させた。そこで体現したかったのは、無骨を通り越して野蛮ともいえるような単旋律、ユニゾン、暴力的強引さ、といった残酷さの表徴である。それは「近代」を乗り越えるために前-近代を欲求するような衝動に基づいている。
今回の作品ではユニゾンによる「無作為の野蛮」を、最初の方と最後の方に2か所置いている(d1)(譜例2)。
だがこれだけでは「無-意味」感が不足するように思えた。ユニゾンは無意匠ではあっても、無-意味に近いというだけで無-意味ではない(旋律性が残っているから)。私はさらに、残酷さとは異なる「無-意味」を求めたくなったのだ。そこで、ふだんやらないことだが、数理系の操作を実施してみた。
以下は「d2:無-意味」部分の解説になる。

まず、フーガ主題(b)の4音における音程の推移は 「3半音(上昇)―4半音(下降)―6半音(下降)」 となっていることから、なんとなく

 {3,4,6}
 
という3項の数列が導かれる。ここから気まぐれに、変な変換を行ってみる。
16分音符を単位とすると、3は16分音符3個=符点8分音符、4は16分音符4個=4分音符、6は16分音符6個=符点4分音符となる(図3の左側)。

 3+4+6=13

なので、16分の13拍子を設定し、このリズム、及びその逆順パターン(6, 4, 3)を素朴に反復させる。4声は主題原型の4音を縦に並べた位置関係にある(譜例7)。 面白さを出すために、リズムがずれるよう、後半の2声は4分音符1個分ずつ後ろにずらしてみた。

これだけの仕掛けである。音楽的に相当「無-意味」な戯れだが、こういうことをずっと長時間続けて無味乾燥な味わいに耽溺するかのような作曲法は、最近の「現代音楽界」にかなり多く見られる。
ついでに、
{3半音(短3度),4半音(長3度),6半音(増4度)}
の音程関係にある2音の3連続(図3の右側)を先ほどの数列リズムで反復する箇所が、134〜138小節の高音部である。

意味と無-意味

一定の楽節や旋律、和声進行など、音楽上の要素が「意味」をなす場合というのは、感覚や認識において強い求心性を喚起するのである。
言語と違う音楽は本来、厳密にはシニフィエ(意味内容)を持たないのだが、人間にとって、感覚的に印象付けるコノテーションは絶えず発生する。そのような作用の集積が、音楽の語法として共有される。これが私の「音楽パロール」の理論だ。
そして「作品」という音楽的「塊」が価値を持つものとされるためには、そこに顕現する内容が、受け手にとって物語のように明解なゲシュタルトをえがくのでなければならない。
「現代音楽」が人気を失ったのは、ことさらに受け手のゲシュタルトを妨害するような造作を好んだからだろうが、あの手この手で音楽の意味作用を破壊し、無-意味を誇示するのであれば、それは当然の成り行きだ。

しかし考えて見えると、フーガの技法、主題の逆行形だの転回形だのも、それ自体は無-意味な操作なのである。
一方、リズムパターンの執拗な繰り返しは、ゲシュタルト崩壊を招きそうなくらい繰り返しすぎであることによって、これもまた無-意味に近づくと言える。
無-意味のカテゴリは、このようにカテゴリB、Cと重なることが可能だ。しかし、カテゴリAすなわち情動系とは重なることがない。私はそれを図1で示しておいた。
無-意味はつまるところ反-情動なのであり、情動は意味の停止によってただ混乱するほかなく、みずから機能停止に陥ってしまうのではないかと、今のところ考えている。無-意味とは、不可能性でもある。
だから大多数のリスナー、音楽に情動を求める聴衆は、無-意味で反-情動的な現代音楽を嫌うのだ。

他者なるもの

この曲を書いている最中に、たまたまメシアンの「鳥のカタログ」を久々に聴いて、その「革新性」に改めて打たれた。鳥のさえずりを実際に耳コピーしてその音高を拡大したりして得られた旋律は、ふつうの自由作曲法では絶対に出てこないような他者性をもっている。
他者性といえば、一時期ものすごく好きになったヤニス・クセナキスの「推計学」による音の選出法にも強度の他者性があって、それはやはり、ふつうに作曲しようとしても出てこないような音型を「意図せずに」生み出す。
実はメシアンは特異な感覚の官能性によって、クセナキスは最終的には人間主義的な芸術的感性によって、音楽をまとめあげるところに特徴がある。
この2人は、すべてが実験室でおこなわれたもののようにクールなウェーベルン以降の系譜とは少し異なっている。

「他者なるもの」の現われは、とりあえず無-意味で暴力的で、野蛮である。
他者と親しくなるということは、互いに他者性を弱め、同一性を共有する方法を編み出すことである。親しさがあまりにも突き進むと馴れ合いになり、もはや自己の身体の延長に過ぎないものであるかのように、ぞんざいに扱うことになってくる。
自己の内側にのみ閉じこもるのとは対照的に、改めて他者性を呼び覚まそうとする芸術上の試みに、私は心惹かれる。
メシアンの「鳥の声」やクセナキスの「推計学による音集合」は、主体にとっての他者性の召喚であるが、その召喚の手法は、実は何でもよいのではないかと思っている。それをd2の書法として示した。
こんにちの「現代音楽」の多くは、むしろ音楽から人間性を消し去ってしまおうという傾向が流行しているが、私は、それならコンピュータを用い純然たる「数理的な計算のみ」によって作曲したらよいのではないか、それこそが「完全に他者の音楽」ではないか、と考える。
だがそのようにして、単に主体を消し去ってしまうなら、機械仕掛けのディストピアしかないのではないか。そこまで行くと「文化」は死滅してしまうのでないか? 抑圧された自己=主体は、ひたすらに病んでゆくしか仕方がなくなるのではないか?
そうではなく、他者性と遭遇し、コンフリクトによって引き裂かれ戸惑いながらも、差異を乗り越え何とか生き延びようとする「主体の維持」、そこに必然的に生まれる「主体の変容」こそが重要なのではないか? これが、私の取り組む課題だ。

哲学的ポリフォニー

Multiple Meaningsで目指されたポリフォニーは、狭義のバッハ的な対位法のことではなく、差異のある音楽要素-群同士の対立を描き出す場にある。
「ブロック作曲法」は、共時的に線が相対立する状況をコントロールする対位法に対して、通時的に(時間軸上に領土を作って)相対立する音楽要素-群を描出するポリフォニー作法なのだ。それはドストエフスキーの小説において人物の視点が段階的に移り変わってゆく書き方、あるいは劇作に似ている。
そしてここでは、それぞれの「声」は旋律的な声部なのではなくて、異種の者たちがそれぞれの場所において発する真実味のある「声」でなくてはならない。 ただ、私自身が「好む」という基準で選択された「声」たちは対立するよりもフュージョンしてしまう傾向にあった。だから、私は「情動的主体」と「無-意味」との競合という、より深刻な対立点を探し出さなければならなかったのだ。

世界の多元性と一致するためには、独我論的な表現主義はまったく邪魔になるのであり、そこを超えつつ、しかし機械的な冷徹さを礼賛して自ら死ぬのでもなく、他者との対峙を通して、絶え間なく自己を更新していくこと。
同一性の安穏さに浸るばかりではなく、他者の厳しいまなざしの中にふたたび身をさらすこと。

ナショナリズムのような理念に同一性を強要するごとき体制に、私は最大限反抗する。効率性や生産性のパラメーター評価による序列に、すべての人間を服従させようとする現代社会の経済至上主義にも。
たとえば、さまざまな「発達障害」と呼ばれる傾向を持つ人びとがいる。彼らは会社の効率性リズムからとりこぼされたり、集団の強調を乱すような突飛な言動をすると責められたりするかもしれない。
だがこういった場合においても、他者を受け入れる覚悟をしなければならないと要求する。
集合体(集団)に調和が必要だというなら、それはあらゆる差異をも包摂するべく、無限に拡張された大いなる主体の調和でなければならない。そんな巨大な主体は現代社会には存在せず、調和は遥か遠い彼方、無限遠点の未来にしかあり得ない。
地べたにうごめくこのいびつな社会では、世界-主体は常に他者-差異によって揺さぶられ、引き裂かれ、打ち壊されなければならない。だからこそ、そこら中を不協和音が満たしているのだ。

前奏曲と言うには異例の6分の長さとなってしまった今作は、その全体において、私の思考を露わにしているのである。
だが、この思考においてもまた、潜在的な情動によるバイアスが働いており、私は何かから逃れようとしているのかもしれない。


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