「Complex Source Code」の動画を公開
textes/notes/音楽
written 2020/2/15
先日2月11日に完成・公開した楽曲「Complex Source Code」の動画を作成した。
今回はついに、本人出演がメインの恥ずかしい動画になった。
歳をとり髪は少なくなったし、歯槽膿漏の進行により下の前歯が3本抜けているのがみっともなく(入れ歯にする予定だが歯科の方針が合わず停滞中)、こんなかっこ悪い姿をさらすのは当然遠慮すべきところではあるが、動画作成の途中からはもう諦めの境地、「自分という身体」を突き放して冷徹に見守るような心境になった。TikTokみたいなのをやっている若者たちは、初めからこのような無防備さ、矢吹丈の「ノーガード戦法」のようなスタイルに無邪気に身をさらしているのだろう。
今回はさらに、アーティスト名も「タナカノブヨシ」と片仮名表記にしてみた。いつも「Nobuyoshi Tanaka」としていたのは、自分の音楽は日本人よりも海外の音楽愛好家に受け入れられるだろうと思い、英語表記により楽曲を配信することにより、いわば「日本」を飛び越えようとしていたのである。
ところが今回は完全に日本語「ラップ」なので、日本語表記の方がふさわしい。自分の名前については、Facebookで片仮名表記を使ってきたのは単に、職業柄、実名をあまり結びつけられたくないなという思いで半ば仮面をかぶっていた(完全には隠していない)のだが、漢字を使うとこれは表意文字なので、「田んぼの中」のような「意味」の固定が何だかうざったく、これをこそげ落とすためにはやはりカタカナの方が心地よいのである。
音楽だとか文学だとか、個人で制作した芸術作品を世に出すという行為はもともと、多かれ少なかれ「自分の内面」、自分自身でも把握していないような心的機構の隅々までものソースコードをいきなり、まだ見ぬ大量の他者の面前に露出してしまうということだ。
そして露わにされたソースコードは、今ではネットの情報社会に取り返しのつかない形で拡散され、例えてみるなら個体からさまよい出た精子が、だれかの卵子に出会うことを望みつつ、だが周囲にも無数の精子が泳いでいるために目的を果たすのは狭き門、幸運に至る確率は天文学的に低いようなこの徒労の旅路を、外部から「即ち空」と優しくささやくゴーダマ・ブッダの静かなまなざしが見つめている。
ネット環境の日常化により、「芸術作品」に限らず、人々の膨大なエノンセ(言表)がネットの中を激しく行き交っており、こうした情報の無限の大海のさなかに個々の「人間」(の意識というまとまり)は解体してしまっているというのが現在の情況だろう。ここでは人間的な「統合性」が削除されている。統合性を解除することによって「情報化」が果たされるからだ。
かつて芸術家は己のソースコードを有意味なまとまりとして普及させる特権を持った権威的存在(あるいは権威的なシンボル)であったが、既に時代はそのような「神聖な個人」の神話を解体し、「階級」を無視してあらゆる凡庸な個人の凡庸なエノンセの流通が統計学的な数値に算入されるとともに、個人情報をAIを通してビジネスチャンスへと転回させることに、マーケティングの基礎が成立するようになった。
「特権を失った芸術家」はポピュラーミュージック産業とは別のところで、そのソースコードを放つことの価値を維持することができるのか? ということが問われるだろう。だが結局その個人のソースコード自体に社会的な意味は無く、それと直接対峙する自分自身のメタレベルでの所作が、その思考の臨界を示すことによって、社会的な意味をも伴いうるようになるのだろうか?
こうした認識に基づいてこの曲の歌詞は書かれた。
ヒップホップの文脈とはかなりずれた「人文系ラップ」と私は名付ける。語調などに少々パンクな姿勢を見せるのはこの「仮面の告白」に意匠をまとわせているというだけだ(しかし全ての告白は仮面の告白である)。
相変わらず世間一般の音楽とは致命的にずれたことをやっているわけだが、私の来歴の中でこれまでとちょっと違うのは、自分自身の身体性から直接発声されたパロール的な素材を用いているということだ。最初から最後までボカロに歌わせるのと、自分で歌うのとではやはり大きな違いがある。
文化現象としてのこんにちの音楽が「パロール音楽」(大衆的な音楽全般や、どちらかというと懐古的・保守的なクラシック音楽界における「演奏行為による音楽」)と「エクリチュール音楽」(クラシック系現代[前衛]音楽の作曲家がこだわり続けてきた、楽譜偏重の「音楽」)との決定的な乖離の情況については、後日あらためて研究してみよう。
私は歌うのが非常に下手で、頭の中では正確な音高をイメージできるのに自分自身でその音をすんなり出せないというのは、恐らく小さな子どもの頃に全然歌わなかったからだろうと考えている。自分の肉体的行為を単純にコントロールできていないのだ。
だから音程を気にしなくて済むラップのほうがまだましではある。それでも滑舌もリズム感も悪いので、ラップの文脈から見れば、全然上手くない、屑のようなビギナーである。
だがDTM「打ち込み」による「完全に意図によりコントロールされた」音楽作成でなく、自分の身体から直接音楽を生成してみる(上手くないから偶然性を伴う! これはスリリングなプロセスだ)というこの試みは、自分の中ではなかなか面白い段階であり、歌詞というもののメッセージ性、言語的な意味作用を吟味しなおす側面においても、有意義な追究になると思う。
ということで、また後日「ラップ」を試みてみたい。7/8拍子は大変なので、やっぱり4/4にした方が良さそうだが。
しかし音楽内容も、もっとラジカルに掘り下げてみたいと思っている。
(ところで、かつてはラップの代名詞だった「YO」は最近聞かないのだが、ひょっとしてもう死語になってるのか?)
まず入れ歯を作って貰わなくては。
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