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Existence Wheel (feat. GUMI)

musique/composition/声楽曲

written 2019/6/16


※音楽作品はモバイル版では現在提供できません。


iPad上のKorg Gadgetで作曲するボカロ入り楽曲のシリーズ、「亀裂」「ありがとう、世界」と来て今回この「Existence Wheel」を完成させた。
最大で16小節までにしか出来ない「ブロック」を単位として曲を組み立てて行くこのソフトが必然的に招く「ブロック作曲法」をこれまでよりも露骨に・意識的に活用し、そこから何を掴み取れるかを探索してみた。
Korg Gadget のインターフェースでは、ブロック毎に作曲したものを、任意にタップした順序で再生できるし、極めて簡単に並び替えてセッティングすることもできる。
各ブロックの音楽内容同士の差異によっては、その並び順はひどく不自然だったり、あまりにも唐突だったりするような展開が現れることになる。
むしろそうした「唐突さ」「自同性の破れ」を意図的にある程度織り込んでみる。


かつて美術家の生須芳英さんと「恋愛ふらくたる」という曲を合作した時、私の作り方があ露骨に表現主義的に、情動全開の状態になっていたところ、生須さんから
「例えばキッチュの要素を入れてみてはどうか」
という提案があり、そこで私はボーカロイドに「キッチュ、キッチュ」と言わせるポップな次元を追加したのだった。
キッチュなるものについては、そういえば20世紀以降の美術史ではずいぶんクローズアップされたテーマだったかもしれない。私は現代美術についてはほとんど無知なのだが、まあ、その嚆矢として例えばアンディ・ウォーホルあたりを想起する。
キッチュ概念自体については、美術史にくらべ20世紀以降の現代音楽では、知っている限り、あまり話題にならなかったと思う。ポピュラー音楽に接近すること自体は、シリアスな現代音楽にとってもそんなに画期的ではなく、単なる堕落として受け止められ、重要視されなかったのではないか。
しかしウォーホルの場合を考えてみて、キッチュなものをシリアスなアートの文脈に持ち込むという所作は、異質な文脈を混入することによってもとの文脈に安住していた主体がかく乱し、衝撃が生み出され、そのこと自体が根本的な問いを喚起する。この大雑把な意味では、デュシャンの便器も同様の効果を持つし、文学を中心としたシュルレアリスムもその方式だし、ジョン・ケージの占いやら偶然性やら4分33秒やらも同じ領域にある。20世紀芸術の得意とするやり方というのは、これだったのかもしれない、とさえおもう。
 ゴダール映画の切り口鋭いコラージュ的技法は、見る者を覚醒させるとともに、その切り口の両側にある二つのシーンを際立たせ、「これは何か」と根本から問い返す。
 この「これは何か」という問いを現出させる文脈の破れ、地層の断裂、差異の極大化を私は「他者性」そして「断裂」と呼ぶ。
 現代芸術そして現代人の心の問題はこれである。「断裂」。
 ヤニス・クセナキスが推計学を用いて算出した音を集合させるとき、そこには人間が想像力によって作曲しうる限界を遥かに超えた何者か、つまり「他者」を屹立させる(数学という他者だ)。しかし重要なのは、クセナキスがそうした交換可能な音集合の束を組み立てる時には、自らの音楽的感受性に従っているという事実である。クセナキスは自らの主体を決して消し去ろうとはしない。著書を当たってみても。
 計算だけでは構築し得ない音楽的な・人間的な感動が、したがってクセナキスの作品には残っている。この主体/自同性と、推計学による乱数めいた他者的な音集合との、きびしい緊張のもとでの対決のありようが、特に大規模管弦楽作品において、クセナキスの音楽を卓越したものとしているのだ。その無作為に選ばれたかのような音集合が全体として波動を巻き起こしてゆく状況は、あたかも現代ギリシャの混迷する大衆の悲劇をも想起させる。
 一方、私はコンプチュアル・アートには全然惹かれない。
 ジョン・ケージの行ったことの幾つかは、もちろん音楽史において重要な意味を持つものだったが、それは「かつてケージがこれを書いた」という過ぎ去った出来事としての、年表上の記録としての重要性であり、現在のなまなましい出来事やナマの生にとって重大な諸事態とは遠く隔たっている。私はケージのCDを聴くとき、「4分33秒」のトラックは必ず飛ばしてしまう。ラジオのチューナーつまみを回しているだけの曲もそうだ(「Radio Music」)。
 コンセプトそのものは音楽ではない。コンセプトの新しさを追い求めている人々が、現代音楽の世界にもたくさんいるようだが、私は全然興味を持てない。
 コンセプトの先に立ち現れるあくまでも音楽としての音楽を、私は求めたいと思っている。コンセプトだけなら、説明だけ読めば済むのであって、わざわざ時間を割いて聴く必要が無い。


 それで、「ブロック作曲法」によるこの作品だが、単純につぎはぎ作業で作れば良い、とは全く思わなかった。前述のケージのRadio Musicみたいにただ適当にサウンドを切り替えたり、あるいはテープや現在のコンピュータ・テクノロジーを用いて既成の楽曲の部分的波形をつなぎ合わせたり、ジャズのグループで各プレイヤーがめいめい勝手なことをしたりすれば、それで「何か面白くなる」とは全然思えない。
 そもそもの出発点においてモーツァルトをルーツとした私にとって、音楽作品は有機体のように生きていなければならず、おのずとそこでは自同律による一貫性が前提とされなければならない。
 一般的に自同性は、質感や感情の動きの継起性・持続性によって保持される。この自同性の原理をベースとしつつ、多様な各要素を知的・あるいは気まぐれに切り貼り・配置していく操作を、自同性から身を引き剥がすような所作として構想した。コラージュ的な作業において、自同性は裁断・ペーストされ、そのつなぎ目は断裂を露出するはずだ。
 しかしABAと反復するような展開でも、2番目のAは最初のAとは違うはずで、それはBを経過することによって、他者と己との相互作用によって変形されるに違いない、その変容は時間軸に沿って表面化してくるに違いない、と私は考える。それが生命なるものの、存在なるものの根本原理だ。
 かといって、多様なエレメンツを載せた各ブロックを、あまりにもスムーズに「推移」させてしまうと、ある種の映画音楽みたいになってしまう。実際過去に失敗の経験があるから、これは避けたかった。
 かくしてブロックとブロックのあいだにどの程度の差異を設定すべきか?というジレンマに悩みながらの作曲だった。  狙っていた「他者性」はそう簡単には招来することができず、結局ジャン=リュック・ゴダールのような鋭い切り口は出せなかったように思うが、この方向でもう少しいろいろ作ってみると、何か見えてくるかもしれないという淡い期待を持っている。たとえば、クラシック音楽(現代音楽)のフォーマットでこれをやるならどのようなものが可能だろうか。
 自分の情動に沿って素材を作る限りは、「外部」と直接対峙することはかなわず、しょせん自同性という牢獄から脱出することは不可能なのであろうか? いかに多様性・他文化主義・他者との共生社会を理想としていても?
 悩みながら書いた、と記したが、反面、楽しんで作ったのも事実だ。ある程度の主要モチーフ、主要ブロックを決めてからは、それぞれが互いに作用しつつ、それに応じてオートマチックに自己組織化を繰り広げてゆくような手応えがあった。細胞がどんどん増殖してゆくように、作品は勝手に膨らんでいったから、私にしてはずいぶんと長い曲になった。
 
 ちなみに今回の音源ではiPadの他にTeenage Engineeringのポケットオペレーター Pocket Operator PO-33 K.O!なんていうガジェット(おもちゃみたいな感じの小型のサンプラー)も使ってみたし、microKORG sでのボコーダーにも挑戦し、マイクを持ちだして自ら「デスボイス」を披露、動画では出来もしないダンスらしきものまでやったりもしている。
 曲自体は、主要テーマなどが疑似-民族音楽ふうなので、過去の「MATARAJIN」に似ていると思う。しかしそうした「風味」程度のものよりメタな次元に立って音楽を構成してみたつもりだ。


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