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2018、すべては解体へと向かった

textes/notes/雑記

written 2018/12/31


 今年は2006年(父と姉の死、自宅新築、「うつ」の投薬開始)を上回るほどの激動の1年であり、私にとって人生の分岐点となる年となった。


コンサートの失敗

 2019年に米ピアニスト・ヴィッキーさんを北海道に招聘しコンサートを開催しようという、昨年以来のプロジェクトの前哨戦として、東京のピアノ・デュオを4月、苫小牧に呼んでコンサートを開いたが、これが興行的には大失敗。私は当初支出を負担するつもりでなかったのだが、なりゆきで15万円くらいの赤字を被ることになった。
 この15万と、ヴィッキーさんのプロジェクトのための資金を合わせて、私は口座間で資金を移動した。これが夫婦のいさかいを生むきっかけとなり、離婚へとつながった。
 昨年から「今までネットの仮想空間だけに限定されていた自分の<音楽>生活を、実生活に接続しよう」というプランを実行してみたところ、私の安定的な実生活はもろくも崩壊することになったのだった。
 ヴィッキーさんのプロジェクトについては、資金面の困難もあり、それよりも、実行に当たっての協力者を結局得られなかったから、中止とせざるを得なかった。


別居・離婚

 夫婦間の口論がきっかけとなり、8月初めに妻と娘が出て行った。妻は極めて感情的な、一度思い込んだら誰にも・本人にも止められなくなる鉄砲玉のような人間で、このまま離婚することになる。
 妻に関しては、私もはるか昔からさまざまな不満を覚え、互いのコミュニケーションもどうにもならない状態となっていた。娘が生まれたことで、そうした不満は抑制され私はこの「家族生活」を時には喜びにあふれながら過ごしてきたのだが、娘が中学生・高校生と成長するにつれ、父子の会話は少なくなり、我が家にもしずかなディスコミュニケーションの冷たさが降りてきていた(それは私には不快ではなかったが)。
 いざ娘がこの家から去ってしまうと、それは激しい悲痛となり、私の精神をむしばみ空虚な穴だらけにしていった。妻と娘の荷物はおおむね搬出・処分したものの、細かいものがあちこち家内に残存しており、そうした品物は、もう捨てていいのだろうが無数にあるから処分にも今後数ヶ月かかりそうだ。それらを見ると、特に娘が幼かった頃の、私の人生ではほぼ唯一と言って良い、陽光に満たされた幸せな数々の記憶がフラッシュバックし、私は心の中で慟哭し数分間固まってしまう。

 娘は来年は大学進学の予定で、いずれにしても4月には家を出て行き、その後は就職・結婚などとすすむだろうから、子はもう巣立ち自立する時期に来てはいた。けれども、このような形で、しかも別れ際にちょっと口論もしたものだから、なんともネガティブに離散を迎えてしまい、鋭くえぐる悲愴がときおりやって来る。


老化

 今年私は49歳を迎えたが、驚くほどの身体の老朽化に次々と襲われた。
 昨年末からひどかった歯槽膿漏は、その進行は一応止まったものの、良くはなく、固い物が食べにくくなった。けれどもこんな点はささいなことである。
 ちょうど家族が離散した8月以降、私のもともと近視・乱視だった目は老眼になった。ある日突然、間近の本の活字が読めないことに気づき、かなり衝撃を受けた。人に聞いてみると、どうやら男も女も、このくらいの年で老眼になってしまうものらしい。その後遠近両用のメガネも作ったりしたが、どうも合ってないようで、現在も「字を読む」ことに不自由を感じる。私のような読書を生きる糧としてきた人間には、本をスムーズに読めないことはとても辛い。
 また、同じく8月か9月ころから、凄い加速度で頭髪の後退が始まった。これは本当に驚くばかりのスピードで、あれよあれよという間に私の前髪はほとんど無くなってしまった。育毛剤などで抵抗はしてみたものの、どうにも止められないもので、心底恐ろしいような老化だと思う。父は禿頭でなかったので、母方の祖父からの隔世遺伝のようだ。
 離婚したらさっさと誰かと再婚したいなと漠然と思っていたのに、こんなに禿げてきては結構望み薄いのではないか。「こんなはずでは」といったところだ。
 いっそ横や後ろの髪も剃ってスキンヘッドにしたい気もするが、眉毛が太いので似合わなそうだ。白人だとジェイソン・ステイサムのように禿げてもかっこいい男性がいるのに、日本人の場合大抵はかっこ悪くなる。
 老化というものがこんなにも、あるとき迅速に進行するとは知らなかった。本当に凄い勢いである。二次関数のようにどんどん加速していくのだから目が回るくらいだ。
 老化現象はたぶん時限爆弾のように遺伝子にあらかじめ書き込まれていて、何故そんな生を阻むようなプログラミングが施されているのか知らないが、とにかく、50歳あたりから、ヒトの身体は急速に死へと向かうものらしい。このプロセスには抗えない。昔の人は恐らく50代くらいで死ぬことが多かったのだろう。医学の発展により現在はいたずらに70歳、80歳、90歳と死を遅らせる技術が世に定着しているが、それは「自然」ではないような気がする。


希死念慮

 昨年末から今年春にかけて職場のトラブルにより激しい「うつ」状態に包まれ、何度も自死を実行しかけたが、結局、追加で処方された三環系抗うつ剤「ノリトレン」が、ひどい副作用も伴いながら私にはめざましく効いて、強い希死念慮からは遠ざかることができた。  現在もノリトレンを服用している。
 家族が離散し、その家族のために建築し十数年を共に過ごしてきた住宅に今私が一人取り残されており、まさしく自殺するにはぴったりの状況なのに、そこまで明確に激しく自死に向かおうとしないのはノリトレンのおかげなのかもしれない。


病気

 別居する直前の7月下旬には急性心筋梗塞で即刻入院となった。
 前夜胸がひどく痛くなり、かつて胃潰瘍をやったときと痛む部位がちょっと似ていたのでまたあれか、と思い、翌日総合病院の消化器内科を受診したところ、血液検査のあとで突然看護師が車椅子を持ってきて乗せられた。すぐに1-2週間ほど入院が必要だと言う。いや用事が、と言ったものの、職場に行くことも家に帰ることもダメだと言う。
 その日の内に心臓カテーテルをやって、幸い血管が詰まった箇所は心臓の末端の、大事に至らない場所で、すぐに詰まりは解消し、後は薬で治せるとのことだった。結局8日間の入院だった。
 以前からコレステロールと中性脂肪の数値が高く、中年のメタボ体型だったのが、1年前から何故か血糖値も高くなっていて、原因はそれらしかった。コレステロールと血糖値を下げる薬を出され、今も飲んでいる。
 ちょうど別居し独り身となったので、自炊しなければならなくなったが、血糖値を下げるため野菜の料理ばかり作っている。白飯も若干減らしている。するとコレステロールや血糖値は薬のお陰もあって正常値の範囲に収まり、そればかりか、入院前から十数キロ体重が減り、現在はBMI計算による標準体重を2,3キロ下回っている。
 これまでの食生活が悪かったのである。妻も娘も太っていたから、明らかに主婦の献立に問題があった。妻は何を言っても無駄な人だったから、ずるずると偏った食事ばかり続いたのである。
 血糖値を下げる薬の効果でたぶん低血糖のようになるのか、立ちくらみがひどい。これまでも立ちくらみはあったものの、こんな凄まじいのは初めてだった。実は三環系抗うつ剤のノリトレンの副作用にも「立ちくらみ」があって、どちらのせいなのかははっきりしないが、今年生まれて初めて、立ちくらみにより2回失神している。幸運にも、どちらも傍に人がいて助け起こされた。
 慣れてみると、この「失神するほどの激しいめまい」はなかなか楽しい。病んでいる感や終末感をストレートに味わえるし、いつ自分が倒れるかと思うとわくわくする。一人でいるとき倒れて、頭でも打ったらどうなるのかわからないが。


生活

 自炊だけでなく、独り身となってみるともちろん洗濯なども全部自分でやらなければならない。
 これにより、読書や作曲に費やす時間が全然無くなってしまった。毎日、最低やらなければならない行動で忙殺され、まったく余裕がなくなった。すると、時間がないせいだけでなく、作曲する意欲も無くなった。自分の時間を楽しんで使う隙は無い。別居して以来、作曲は全然していない。「前衛スギルキミ」ファイナルバージョンの動画を作ったくらいで、後は何もしていない。
 とりわけ「現代音楽」から少し離れている。
 取り残された住居に一人でいれば痛切な気持ちになってくるが、そのような時間の隙間を埋めてくれるのは音楽だった。それもクラシックでなく、POPやロックなどの「大衆」音楽である。それをBGMとして流しておけば、ふと思い詰めてしまうような隙間が埋まって、ぼんやりと時間をすごぜるのである。
 見るでもなくテレビをずっと付けっぱなしにする人がいるが、彼らも不安を抱えているのだろう。
 こうした「音楽の効用」を改めて味わった。
 そして、POPミュージックにおける「パロール」としての行為:交感:コミュニケーション・社会形成というものに私はさらに近づいた。このパロール型音楽に迫るべく、最近は一人でカラオケに行って練習してみたりもしている。


最後の望み?

 作曲からも遠く離れ、視力の衰えと時間のなさによって読書もあまり出来なくなって、ただひたすらに「生活」している。
 何の意味があるのだろう?
 来る日も来る日も、自分のための食事を作り、風呂に入り、選択し、掃除する。雪が積もれば雪かきをする。
 この「生活」は何のためにあるのだろう?

 脱毛してよれよれになり、とっくに飛べなくなった老い始めの鳥が、地べたを這いずり回っている。
 もちろん、生きることに意味は無く、生に執着する気はさらさら無い。
 自死する気力さえ消え、ただ天命を待ってぼんやりと生きている。
 そうした中で、寂しさから、かすかな希望でも探そうというのかちょっとした行動を近頃しているのだが、これがやたらと金がかかる。そもそも一度極限まで自死を願ってしまうと、もはや仕事のことも将来のこともどうでもよくなるし、お金なんぞ貯めても仕方ないという気になってしまうのだが、それにしても最近は激しく出費しており、半ばやけくそで、結構やばい状況だ。
 しかし間もなくみっともなく禿げてしまうだろうし、いろいろ面倒くさいし、もう何も失う物もないくらいだから、さっさと死んでしまえばいいのに。
 何故この期に及んでなお、死なないのか?

 ノリトレンのせいなのか?


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