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根をもつこと、パロール

textes/notes/雑記

written 2017/10/15


 シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』は、この人の著作がほとんどそうであるように、私には首肯できない部分が多く、あまり興味が持てなかったのだが、主題である「人間は複数の根をもたなければならない」という主張自体には共感する。
 私はコンピュータ・ソフトウェアというおもちゃを使って一人で作曲ごっこをやり、インターネットという、明確な「場所」ともいえないようなトポロジー空間を漂流してきた。
 一方で私はごく平凡な職業人で、家族を持ち、家に住んでいる。
 この2つの領域は明確に切り離されていたが、最近になっていよいよ「音楽」が実生活にも食い込み、両世界の統合が予感されるようになってきた。
 それは演奏家等との「リアルな」面接により、音楽が「生活化」に近づいたということだ。水と油が混ざり始めた。

 音楽関係で、私の抱えているプロジェクトは幾つかあるが、どれも「生身の他者」との関わりが強い。

(1)「前衛スギルキミ」のナマピアノとナマボーカルの(動画上の)共演の実現。・・・これは何やら難航していて、歌い手さんの行動をひたすら待っている状態である。ひょっとしたら別の歌い手さんを探さなければならなくなるかもしれない。

(2)来年4月、東京のピアノデュオ「Margarita」を私の地元に呼んで開催するコンサートの手配。・・・これはそろそろ本格的に、数ヶ月間がんばって、いろいろ働かなければならないだろう。路面の悪い冬季にこまめに移動しなければならなそうで、ちょっと不安ではある。

(3)再来年、札幌に米ピアニストVicki Rayさんを招聘してコンサートを開催するという、かなりおおがかりな仕事。・・・なかなか協力者が見つからず、いろんなことがうまく行っていないが、これは実行する。結果的に、私が何十万円か負担することになるかもしれない。

(4)札幌で活躍しているシンガーさんに、完全にPOP(として受け入れてもらえそう)な楽曲を提供し、歌って貰う。・・・現在作曲中である。私らしいひねくれた転調をはさんでいるから、ちょっと難しく、歌いにくいかもしれない・・・。

 特に(3)は大きなプロジェクトなので、いままでリアルな世界、特に北海道内では、音楽上の友人なんて一人もいない私だが、今さらながらつながりを求めている。かなり焦って。しかし世の中そう簡単ではなくて、私はコミュニケーションが下手だし、行儀作法もダメで、人間的にも魅力などない愚か者で、やはりヘタレぶりを発揮しているところだ。
 一方で、私は「クラシック音楽」にだけ閉じこもる気はないから、POPやロックやあらゆる方面に顔を出したいと思っている。そこで、「ふつうっぽい楽曲」も作って、誰かに歌ってほしい、曲を気に入って貰いたい、という欲望があり、(4)の試みに進んだ。
 Twitterで探してみると、セミプロからノンプロのシンガーさん、北海道ではやはり札幌市に集中しており、東京ほどではないのだろうけれど、もの凄い数存在する。この点、クラシックとは違うし、とりわけマニアックな現代音楽界などとはスケールが違いすぎる。
 私が住んでいる北海道の田舎では、ロックバンドは多いみたいだが、はっきり「シンガー」という感じの方はあまりいないようだ。
 札幌もしょせん「地方」ではあるのだが、こうした「地方」でがんばっているミュージシャンたちは、本当に「根をもっている」と思う。「草の根」の音楽だ。中にはメジャーシーンに出てきてもおかしくないほどの実力者もおり、「それほどでもない」者も大量にいるのだろうが、いずれにしても、「根づいた音楽」を日々地道にやっている。
 私はこうした活動こそが「音楽文化」だと思っている。
 yui(YUI)さんがDVDのなかで、「自分の原点だ」として、ストリートにしゃがみ込み、ギターを奏でながら歌っていた映像が、私のこのイメージの象徴だ。
 歌いたいから、歌う。芸術的に画期的でなくても、使える言葉を駆使して、創造的に、歌をつくる。それをまちなかで歌って、誰かに聴いてもらう。
 この行動は西洋中世の吟遊詩人にも通じており、音楽文化というのは本来、こうでなくてはならないんじゃないか、経済活動に必ずしも結びつかなくても、こんなふうに音楽は街に流れていくのではないか。
 現代音楽の音楽家はなぜ、ストリートで演奏しないのか。なぜそれは、コンサートホールで取り澄ました聴衆を強要することを前提としているのか。

 音楽は言語ではないが、実際に繰り広げられている諸相をみれば、それぞれの「歌」はパロールである。人々のあいだにはいつもパロールが溢れている。
 他人がいつも話しているような言葉を使って、人は自分のパロールを組み立てる。それは既存の言葉を使っているのだが、しばしば「語られていないことをも語る」のであって、それは創造行為にほかならない。
 そして「ラング」とは、パロールとは別にある何かではなくて、パロールの集積、相互作用によって刻々と変容していく「全体」である。実体としては、ラングとはパロールである。(E. コセリウ『言語変化という問題』原著1958、田中克彦訳、岩波文庫)
 POPソングは、音楽に於いて最もパロール的なパロールである。それはいつも「どこかで聴いたような」音楽素に依存しているが、少しずつ創造的な試みがなされ、ちょっと新しいサウンドが出てきたりして、全体としてゆっくりと変化していく。
 クラシック系の現代音楽というのも、広義のパロールの一種に違いないのだが、狭義のパロール(話し言葉)と対立するエクリチュール(書かれた言葉)への執着が徹底している。書かれた言葉(楽譜)に、知性は垂直に接するので、その言葉は絶えず練り直され再構築される。西洋クラシック音楽が、書く人=作曲家と演奏する人=演奏家の分業へと進んだために、作曲界においてこの垂直方向の「知」が偏重されるようになった。
 しかし現代音楽の世界でも誰もが鋭い知をもっているわけではないので、この狭い世界の内部にいる凡庸な者たちは、優れた知者が創造した語法を真似して、ある種の様式から逸脱することが出来ず、結局はPOPソング界とおなじような、既存のパロール反復しか出来ていない。POPと違うのは、単に「一般聴衆のパロールと遠く離れている」ことだけだ。
 
 私は音楽のパロール世界をくまなく探索してみたいと思っている。私は「知」を、その世界全体に対して行使できるよう、可能な限り多様性を求め、寛容でありたいと思う。

 昨夜、札幌出身で3年前から東京に出て地道な活動をしている「鈴音 Suzune」さんのライブが、私の地元のライブバーであるということで、聴きに行った。ライブバーというのは初体験だ。
 前座がなんと3時間もあって、地元のロックバンドが3組、アコースティックなシンガーが1組出演し、私は真剣に聴いていた。
 エレキギターの「バカテク」で攻めてくるのだが、ときどきミスがある。しかし、そんなミスはたいしたことではなく、「やりたい音楽をやりたいようにやっている」エネルギーの迫力や、「草の根ぶり」が魅力的だった。(逆にミスはないが、凡庸な中立性でやっているバンドは退屈だった。)
 聴きながら、しかしそうした人々と、コンピュータを弄んで一人で作曲ごっこをやってきた私とは、なんと隔たっているのだろう、と悲しい気もした。私と彼ら「根をもつ」ミュージシャンとのあいだには深い淵がある。この場所での私は、完全に場違いで、私のちっぽけな「知性」は無用であり、私は彼らのパロールを遠くで見ているだけなのだ。私などという余計者がいなくても完璧に成立している世界に、私は透明人間のように潜んでいるしかなかった。
 最後に登場した鈴音さんの歌は素晴らしかった。とても上手でよく通る声でメリハリも効いており、アコースティックギターの演奏も上手いと思った。もっとももう少し楽曲に転調を入れてはどうか?という疑問も感じたのだが、そんなことは余計なお世話かもしれない。
 孤立感に襲われていた私は、演奏後彼女に話しかけるでもなく、そそくさと帰った。

 私はまだ、根をもっていない。


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