■ signes mobile ■


アイドル歌曲を書いたこと

textes/notes/音楽

written 2017/5/23


 先日デモ音源と楽譜を公開した私の新作「前衛スギルキミ」(アイドル歌手とピアノのための)は、Facebook上での、「現代音楽をもっと多くの人に楽しんでもらうには、とりあえず、アイドルに歌ってもらったり・演奏してもらったりすればいいんじゃね?」というようなやりとりをきっかけにして、半ば冗談の中から生まれたものだ。
 例えばバイオリンの宮本笑里さんなんかは、ライトなクラシックリスナーのアイドルの役割を演じることで、そこそこ売れていたようだし(私は彼女には興味がないが)、そういう感じで、現代音楽の語法をも操ってしまうような新しい「アイドル」がいれば。中田ヤスタカさんのPerfumeなんかよりも未来的なイメージの。
 一方、ヘビメタ+アイドルであるBABYMETALは、全然前面に出してもらえないバックバンドのテクが凄いこともあって、その轟然としたヘビメタサウンドと、アイドルの歌・ダンスとの組み合わせの奇妙さが、海外でもなぜか評価されているようだ(もっとも私は彼女らの音楽もさほど好きではない)。
 それと同様に、現代音楽で一般的な前提である「無調」と、アイドルの歌とを組み合わせてみたら、その違和感ぶりが面白かったりするだろうか?
 
 とはいえ、ボーカロイド初音ミクを買って以来、無調でありながらポピュラーミュージック的な要素も強い作品の路線を断続的に書き続けてきた私にとっては、今回のような「試み」はむしろ普通だし、「音楽のめざめ」や「コンチェルティーノ」を書いた私が、無調っぽいピアノと歌唱を組み合わせた「歌曲」を書くというのは、自然な流れである。
 シリアス・ラジカルで前衛的な現代音楽に魅了された(ひどく少数の)聴き手が、並行してロックやポップをも愛聴していることは珍しくないし、不自然でもない。私も各種のポピュラーミュージックが好きで、「モロにポップな」歌も上質なものは大好きだ。
 しかしポピュラーミュージックのリスナーの大半は、無調への根強い拒否感を持っている。一方、バリバリの現代前衛音楽まっしぐらな人々は、ポップソングのような「凡庸な」旋律や構造を拒否したり軽視したりしているという現状がある。
 私は現代音楽が好きだし、現代人の心的状態に最もふさわしいのは無調の和音ではないかと思っているわけだけれども、現代音楽にだって「なじみやすさ」「ときどき思い出して口ずさみたくなるような、明確なメロディ」があったっていいんじゃないか、と思い、両者を組み合わせたような領域を、周囲からの支持や人気を期待せずに進んできた(そして必然的に、私はアンダーグラウンドに埋もれた)。

「組み合わせ」の妙は、既にいろんなミュージシャンがやっているけれども、悪い意味で「フュージョン化」してしまうとつまらない。いや、ジャンルとしてのいわゆるフュージョンにも優れた作品はたくさんあるのだが、ジャズとロックを組み合わせたとき、ジャズそのものの良さ・ロックそのものの良さの一方あるいは両方が、結局割り引かれてしまうなら、それは良くない。両方を掛け合わせて新たな次元により良いものが出てくるなら別だが、どうもうまく行かないことが多いらしい。
 異質な両者の出会いには、両者の差異がいっそう際立つとともに、その差異が両者へのあらためての「問い」を投げかけ、「問い」のるつぼの中で、人々が「目覚め」、新たな認識に到達してしまうような衝撃性が、あればいい。
 つまり、解剖台の上での、ミシンとこうもり傘の出会い(ロートレアモン)のようであればいい。
 
「前衛スギルキミ」のヴォーカル譜は、ソルフェージュを丹念にやり鍛えまくった声楽家ではなく、その辺にいる「ごくふつうの女の子」が歌えるような範囲にとどめるよう、気をつけた。最高音をCに抑えるのに苦労した(メロディー譜が転調しているのは、最高音をCに抑制するためだ)。デモ音源はボーカロイドだが、この曲の声楽パートは、あくまでも生身の人間を想定している。歌い出しの音を取りやすいよう、ところどころ、その音をピアノが先打ちするような工夫も行った(もっとやるべきだったかもしれない)。
 ただし背後にきこえるピアノ伴奏はほとんど無調なので、不協和音を気にせずに、歌手は自信を持って歌い通さなければならない。このことは結局技術的に難しいだろう。私もピアノの音だけをバックにちょっと試しに歌ってみたら、結構難しかった(笑)。もっと歌いやすい別バージョンのアレンジも書いてみようかと思っている。実は別の方にも依頼している。

 生命の論理を考えてみると、「免疫機能」は、自己の組織に割り込んできた異質な他者を排除ないし無害化する装置である。だが、排除せずになじみ、他者と共生してしまう場合もあるはずだ。人間の身体には37兆という自己の細胞数を遙かに上回る100兆個もの微生物が棲んでいる(参考:https://kabi.co.jp/kabi.php?k=k25)。
 また、臓器や四肢を委嘱するような場合、人は他者の組織と接合されるという試練を受ける。拒否反応がひどければ、自己の生命が危うくなってしまうこともあるだろう。しかし、うまくいく場合もあるようだ。
 
 無調の現代音楽の側が独自のロジックを持ち「システム」として生きているとすると、そこに全く異質な「アイドル的なもの・POP」という、これまた独自なシステムと「接合」されたとき、なんらかの拒否反応が起きるのは当然だ。そこで強調された差異は激しく「問い」を突きつける。
「現代音楽とは何か? 前衛とは何か? 無調とは何か?」
「ポップとは何か? メロディーとは何か? 調性とは何か?」
「音楽とは何か?」

 差異の激しさが両者へと変容を迫る。無調ピアノの側は固定拍子、明確なリズム、あげくに部分的には(特にサビにおいて)調性的・和声的になることを余儀なくされ、一方でヴォーカルの側は、調性よりも無調になじみやすい「旋法」的なラインで身を守らねばならず、不協和音に囲まれながらも自らを貫く試練を経過しなければならない。歌詞内容もまた、前衛的なアイツの世界に、不可解ながらも引き寄せられていく際の不安感を、無意識領域に押し込み、潜伏させている。
 だが、これら両者の変容が、それぞれの領域におけるコアな部分(生命線)を譲歩させてはならないし、逆にそれぞれのベクトルを強化し、進展させるものでなければならない。
 要するに、予定調和的な「和」として融合するのではなく、異質な他者同士の出会いがハプニングとして、「何かが起こる」ようでなければ、この試み自体が無意味になってしまう。
 fuseしなくてもいい、happenせよ!
 
「前衛スギルキミ」のヴォーカルはまだ決まっていない。結局誰にも歌ってもらえず終わる可能性も高いが、もしかしたら複数のシンガーにめぐりあえて、複数のヴァージョンの録音ができるかもしれない。あわよくばコンサートでの演奏を希望しているが、とりあえず、シンガーの歌唱する姿を収めたミュージックビデオを作ってみたいと思っている。
「前衛」というコンセプトを残してくれるなら、アレンジして異なる編成(バンドなど)でやっていただいても構わないし、そのへんは適当に変容していっていいと思う。「歌」というものは、そうしたものだ。そうなれば、この小さな作品から、何かhappenすることになるはずだ。


<feeedback>

■ この記事はいかがでしたか?

まあまあよいと思った
とてもよいと思った

4 point / 投票数 2 ####

この記事へのコメント


signes mobile

通常版(PC用)トップページ

2229052