断想2017-4-27
textes/notes/雑記
written 2017/4/27
フルートとピアノのために4年前に書いた「Way to the Winter Garden」を初演してほしいなあ、とつぶやいていたところ、ピアニストはすぐに手を上げてくださった方がいたものの、東京でフルート奏者が見つからない。ピアニストさんが当たってくださったが、作曲者=私が「有名でないので」引き受けてもらえないとのこと。「Way to...」はコンピュータによるデモ音源も公開しているので、曲を聴いて「音楽的にあまり興味を持てない」なら仕方がないのだけれども、音楽性で判断するんじゃなく、作曲者が「有名かどうか」で判断するって・・・クラシック系日本人演奏家っていったい何なんだろう?
まだ正式決定ではないので詳しく書けないが、米国の現代音楽の世界で活躍してきたあるベテランピアニストさん(市販された参加CD多数)が、Facebook経由で突然メッセージをくださり、私のある曲を来年米国で初演していいか?とのお話。もちろんこちらは快諾したが、そのときそのピアニストの方のことを知らなくて、あとで有名な方と知ってあせった。
一般論として、海外の演奏家はネットを活用してどんどん新しいレパートリーを開拓し、作曲者が有名だろうが無名だろうが、曲が気に入れば果敢に挑戦しようとする方が多いと思う。ネットを活用して「たまたま」私を見いだしてくれる演奏家さんが、世界中にいる。(もちろんそんなに多くはないけれど)
一方で日本人の演奏家ときたら、自分で新レパートリーをネットで探そうとなんてしたことなく、人が演奏しているのを見て自分もやろうとか、作曲者が有名じゃないからやらないとか、どこまで怠慢なんだろうと思う。まだ誰からも見いだされていないような新鮮な曲を世界中のアーカイブから見つけ出して、それを聴衆に提供し、驚きやら感動やらを共有する。演奏家の仕事ってそれじゃないのか。客も自分も飽きるほど知り尽くしたような曲ばかりやるのが、安定していて楽しいから(ラクだから?)やめられないというのか。新しい音楽を自分で聴いて、良いと思ったらどんどんやればいいのに、価値判断を自分で行って行動することをおそれ、他人の目ばかり気にしている。だから肩書きだの学歴だのを過剰に気にする。本当に情けない、島国の弱虫だ。
日本のクラシック系の演奏家の大半はどうやら音楽を愛してはいない。少なくとも自らを賭けて音楽に飛び込もうというほど勇敢に愛していない。ただみんながやっているようなことを自分もブナンにこなして、自分の評判が世間でゆっくりと上がることだけをのぞんでいるようだ。ポピュラーミュージックの若者の方が、よっぽどハングリーで、チャレンジ精神にあふれている。
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別な話で、米国在住のある素晴らしい演奏家のために、曲を書いた。その方の好みや、いろいろな状況があって、久々に調性的な、とても分かりやすい曲になった。全体的には出来はいいほうかもしれない。近年の私にはない曲調の室内楽だ。近日中にこの作品について詳細を書けるようになったら嬉しい。
調性音楽のジャンルにおいても、私が目指す音楽性の追究の余地が無いわけではないようだ。これをきっかけに、調性というか、少なくとも音階のある普遍的な歌の要素も、もう少し追求してみたくなった。
もっとも、その一方で、いかにも現代音楽らしい現代音楽、無調で文節感もアバンギャルドな楽曲もまた、書きたいなと思っている。
いずれにしても中途半端なのはよくない。
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自分がやってきたことはどうも中途半端だ。ジャンルを越境していろいろ組み合わせる点、無意識のうちに流入してくる各要素を契機にあてどもなくさまようようなエクリチュールを狙う点など、自覚的にそうだった面もあるが、だからといって中途半端であってはいけない。
エレクトロニクスと、ピアノなどの生楽器を組み合わせた楽曲を、ここ数年何度もやってきたけれども、どうもポピュラーミュージック側にかたよった状態でマンネリ化の気配もあり、もっとガッツリ現代音楽な感じでもつくってみたいという思いがある。その点、もっとラジカルに、実験的でありたい。ビートを使ったからと言って甘えたふうにはなりたくないものだ。
アマチュアとは言え、自分の作曲者としての役割は、音楽の可能性の深みに果敢に飛び込んで、なにか価値あるものを発見し、どうにか形にしてリスナーにシェアすることだ。シェアしてみても周りが無反応だったりするが、それにめげてもいられない。じぶんの価値観を信じて、とにかく探究を深め、なにかを掴み取ってくることだ。
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