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メタルのほうへ

textes/notes/音楽

written 2016/11/8


 洋楽ロックというと昔からローリング・ストーンズ、ヴァン・ヘイレン、ピンク・フロイドなどは好んで聴いており、あまり好きではないがもちろんイエスとかELP、ドリームシアター、エアロスミスあたりも少しは聴いて知ってはいる。
 しかし先日、ディストーション・ギターとピアノの組み合わせで現代曲を書いてみたいと思いつき、そのギターをメタルっぽくしようと考えて、この際せっかくだからメタリカ以外のヘヴィメタルの世界を研究しておこう、と企てた。
 初心者は何から手を付けたらいいかわからないので、SNSでオススメのヘヴィメタルを訊いてみたところ、ミュージカリスランドの松本さんから最初に薦められたスリップノット Slipknotがかなり良くて、順次過去のアルバムすべてを聴いてもやはり良かった。キャッチーなモティーフも断片的には出てくるが、より多く器楽曲的で、もちろんノイジーな暴力的なサウンドを基本とする。通常のバンド編成にパーカッションやDJ(スクラッチなどをしている)、キーボードも加わっていることから、それらは控えめではあるがサウンドに幅を持たせている。最初の2枚のアルバムあたりはハードなヘヴィメタルテイストだが、そのぶん1番新しい5thアルバムでは多様性の幅が広がってロック全般という感じにぼやけてしまっている。

 あと、Twitterで佐藤さんが教えてくれたメシュガー Meshuggahも、なんとなくスリップノットに近いところがあるが、更に無調要素を多く使うので面白い。基本的にはキーボードも欠いた編成でスリップノットのようなサウンドの多様性やPOPさはないものの、調/スケールやリズムパターンに関して冒険精神が強いし、曲の構成法も興味深い。
 がなり声ボーカルのみで全アルバムを通しているので、モノクロ感が強いけれども、聴いているうちにむしろ病みつきになってくる。シンプルに「野蛮さ」が表出されているのがいい。ややマイナーなバンドらしいが私は好きだ。

 他に、FacebookでMark Kirschbaumさんが教えてくれたBehold... The Arctopusもかなり興味深い。これは完全に無調を徹底していて、把捉しやすいリフももはやほとんどなく、文節感やリズムの反復以外は結構「現代音楽的」である。そのため一般的には評価が分かれ、人気がないらしく、現在も活動はしているもののかなりマイナーなバンドかもしれない。

 上記のバンドの他にはKornやSlayer辺りも好きだ。やはり、せっかくだから速くて野性味のあるものが気に入っている。
 美しい女性ボーカルにシネマティックなサウンドで、盛り上がるエモーションを追求するWithin Temptationも(声が)好きだが、その魅力はここで扱うヘヴィメタル的なものとはちょっと違うだろう。

 ヘヴィメタルは短音階の第2音が半音下がったフリジアン・スケールを使うことが多い。これはスペイン音楽でもよく出てくる音階だが、メタルでは楽器音が太く、ディストーションで近辺の周波数帯域を押し上げている(半ノイズ化している)ため、主音のすぐ上の短2度が、いっそう重圧のように効いてくる(フラメンコ的軽やかさ、華やかさ、憂愁からは遠い)。この第2音は属音とのあいだに増4度音程もつくるので、それだけで、不安定でスリリングな感じも出てくるだろう。さらに半音階的な手法がしばしばとられ、かなり無調に近づく部分も散見される。特にメシュガーあたりはコード感が薄く、いわばストラヴィンスキー的でモノクロな「力」の発現が際立っている。
 さらにヘヴィメタルでは、特有の、叫んでいるだけのようながなり声のボーカルと相まって、否定=破壊=凶暴=悪といった負のイメージ群と症候的に固着する。ステレオタイプなイメージなどは音楽にとって余計だ、と言う批判的視点もじゅうぶん可能だが、一方、社会内-事象にほかならないものとしての音楽に、音楽外イメージ(コンテクスト)が付随してくることは自然な流れだという見方もできる。
 ロックの中でもとりわけヘヴィメタルは、暴力性や野蛮さを存分にブーストしたジャンルであり、エレキギターに象徴される男根主義が露骨に現れた音楽だ。この表出欲望は、ジャック・ラカン風に言えば、男根の欠如=去勢に由来する欲望であろう。メタラーは社会によって既に去勢されているから、メタラーになったのである。去勢されているが故に、ことさらにギターという男根を強調するのだ。ラカンによると欲望とは欠如であるから。
 ヘヴィ(重い)=低音という、人類に普遍的な連想によって、男性性をむやみに強調したがるヘヴィメタルの愛好者=メタラーの、黒にこだわったコスチューム、タトゥーといったファッション志向は、社会によって暴力を禁忌され(暴力は権力側の特権となる)、原始的な男性性を去勢されているという劣等意識を裏返しにしたくてコスプレしているというような悲哀をも感じさせる。
 メタル系ロッカーの反逆的なスタイル(ただしそれは一種のファッションとなっている)は結果的に、現代音楽的な不協和音とも親和性が高い。後者は(特に表現主義的な音楽では)ファッションという外的徴候ではなく、内的な表出としてクラスター化した和音を放ってゆく(初期ペンデレツキのような好例)。
 どちらも最終的には叫びや狂気に到達し、心的な軌跡がある種の様式美をかたちづくる点や、世界の終末をのぞむヴィジョンにおいても、親近性がある。ただし知的観点による実験的な身ぶりとしての現代音楽を除いて。

 
 今回のヘヴィ・メタル研究で私は自分の音楽の久々の進展を誘発してもらえそうな気がして、大いに高揚した。
 そこには、最近の私の音楽には欠けていた何かがあると思った。・・・それはつまり、シンプルさゆえのインパクトとか、「野蛮さ=文明以前」なのか。

 現代音楽とは言え、やはりクラシック音楽は「知的な」文化領域に属している。そこに無いのは、やはりディストーションを強烈に効かせたエレキギターのような野蛮な存在感だ。知的エリートたちが人生を賭して築き上げ、自らを「第一級の芸術」と称して誇ってきた音楽には未だに(というか、世俗音楽と教養音楽との隔絶がはじまって以来)隙間が残っていて、その隙間をいとも簡単に埋めることができるのは、アタマの悪そうな中学生にも、道具さえあれば簡単にかき鳴らすことの出来る、エレキギターの轟音なのかもしれない。そしてその野蛮さへの恐れから、みずからの高尚さを外部から否定されそうにおもう無意識の弱気から、音楽アカデミズムはエレキギターを全面否定し、逃げ回っているのだろう。

 もともとロックは英米の若者を中心として派生した、20世紀後半以降の「民族音楽」に他ならない。この文化は市場経済システムと結びつきつつ、メディア・テクノロジーに乗って世界中にこだました。その圧倒的多数の群衆を巻き込んだ社会拡張のありようは、実にこぢんまりとした現在の「現代音楽」の先生方のムラ集落とは、規模において比べものにならない。そしてエレキギターはまさしく「民族楽器」なのである。
 いや、私はクセナキス、E. カーター、ファーニホウなどの現代音楽は大好きなので、真摯な「一級」芸術の価値を貶めるつもりはない。敢えて「そこにまだ隙間がある」ことを指摘したいだけである。前衛音楽が果たしてきた冒険を通してなお、まだその先の方へと考察を進め、より大きな・人類的な視点に立って、芸術とは何か、音楽とは何か、ということを根源的に問い直したいのだ。

 ほぼ一定のリズム楽節を退屈なまでに反復するシークエンスは、たとえばピエール・ブーレーズだのカールハインツ・シュトックハウゼンなどは軽蔑の嘲笑で片付けようとしたが、情報理論/メッセージ論では「無意味な冗長性」でしかないはずのこの「反復」は、こと音楽について言うなら、意味を超えた意味、一定の情動的・身体的作用をもたらすドラッグ効果を持つことを否定できない。知的・論理的には無駄・無意味と判断されることも、音楽においては有効・有意味でありうるのだ。知性は人間が編み出した一種の特性にすぎないが、音楽とは一個人の場合に限ってさえも、全人的な、認識が捉えきれないほどに幅広い体験であるからだ。知性も有効ではあるが、それのみを頼っていては、陰の膨大な部分を見失ってしまう。
 だからこそ、多くの素朴な民族音楽ではリズムを延々と繰り返す様式が決まって見られるのだし、想像するに、文明の曙において既にそれは音楽特有の様式として出現していたことだろう。冗長性、反復こそが音楽の起源なのではないか?
 つまり、知性主義的な現代芸術が失ったものは、たとえば、原始的な民族性の単純な野蛮さである。そこには、主知主義に欠けている身体性や大衆性、原始的情動、欲望がある。

 ロック、ヘヴィメタルを特徴づけるパターンの一つは、最も素朴に表せば図のようになる。
 しかしこれをピアノで弾いてみても、やはり感じが出ない。やはりエレキである。ディストーションがかかったギターで弾けば、一気に感じが変わる。ロックのロジックは、楽器の音色について非互換的なのだ。ピアノでこの感じを出すのは難しいだろう。音色について幅広い互換性を発揮しうるバッハの音楽は、反対に最も野蛮さから遠ざかった領域に近いのだろう(だがバッハに「野蛮さ」が無いわけではない)。
 もちろん、このパターンはスラッシュメタル系だと16分音符になる。この同音反復パターンを使わないときでも、ギターは低い音域でうなり声を上げる。そのうなり声の周期性がパターンとなり、「様式」を形成する。
 このような単純きわまりない語彙をはげしい力で押しつけてくる凶暴さ。ここには偏執狂的な固執があり、疑う余地のない野卑な「同一性」の推進が、人々を熱狂させる。この狂気じみた「同一性」の凶暴さを単なる幼児性として、知的スタンスで切り捨ててしまうなら、それまでだろう。だがこの「狂気」が、太古以来の「集団(民族)の音楽」を鼓舞してきたものと同型だとしたら? クラシック音楽があくまでも作者個人の個人性にしがみついている一方で、人々/地域/集団/共同体/社会/コミュニケーション集合体が、みずからの野生を生き、内部の器官・細胞間、モナド相互間の血流をうながすために、もうひとつの「音楽」を復活させたのだとしたら?

 近代以降の伝統的西洋音楽の「楽音」や「知性」からいったん逃れるためには、そのアカデミックで退屈で、多数の庶民からは見向きもされない「リクツの」芸術世界といったん縁を切るためには、もっとも単純で簡単なディストーション・ギターの一音があればいい。「男根」からほとばしるその音色は「血」の隠喩である。血を抜かれた現代人が、音楽という象徴空間の中で、血を欲望する。熱い血のしぶきが、非情な社会システムを破砕する。それは複雑化をきわめた社会システムへの反逆=rebellionである。深層ではおそらくそのことを誰もが気づいているのだが、「知的階層」だけは気づいていないのかもしれない。


 ヘヴィメタルの魅力に心奪われた状態で私が書いてみた作品が「リベリオン・デバイス Rebellion Device 1」である。本物の楽器を使えないからギターのニュアンスがいまいちだが、ここでは独奏ピアノが、ヘヴィメタル・バンド(ツインギター、ベース、ドラムス)と対立的に協奏する。

 この作品は、ずっと4/4拍子、BPM170で、実際に演奏が出来るように、スピード以外は簡単に書いた。もっとも、この編成では、永久に実演されることはないだろう。
 やがて私はこの作品の続編を書くつもりだ。それはおなじことの繰り返しにはならないと思う。
 
 この作品の前に書いた「2台ピアノとラップのための Tokyo Paradox」は、ヒップホップにするつもりはなくて、ただ単調にフレーズ・リズムを反復することでヒップホップ的な世界観に結びつけたかったのだが、どうもいろんな意味で失敗したような気がしている。現代音楽としての出来が全然良くないのである。フュージョン化することで何かが失われるくらいなら、そんなのやらない方がいいではないか。
 ラップとピアノのための作品は再び書くことになっているので、次回はリベンジするつもりで取り組みたい。


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