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非蓋然性について(音楽試論1)

textes/思考

written 2016/7/20


 19世紀西欧ロマン主義の音楽は「蓋然的」な構造を追究し、あらゆる音楽要素を「主体」の主に情緒的な部分に吸着するように構成したため、調性音楽の響きと相まって、すべてが主音=主体に帰着する強力な引力圏をえがきだしたように見える。
 このような「統一体」としての音楽作品は、多くの大衆(教養者層)に愛され、未だに懐古趣味的な大衆に愛され続けている。
 一方で20世紀に入った頃、それまでのさまざまな理性主義、合理性、すっきりと維持される「意味」の単純化、単調なイデオロギー、蓋然的構造の礼賛は順次疑問に付されることになる。これは芸術も学問も含めた文化のあらゆる領域に立ちこめ始めた黒い霧のようなものであり、西欧的な「知」の転換点を示している。
 とりわけ第二次世界大戦が終わったとき、極度の残虐な行為や、死と隣り合ったぎりぎりの生の瞬間を体験し、人はもはや、世界や人間性を単純なモデルのもとに定式化することが出来なくなっていた。世界も人間も、現実には、単純に「理性的」でも「合理的」でも「有意味」でもなかったのだ。(ただしこの大きな動揺をおぼえたのは主としてヨーロッパ諸国民や日本人であり、まだ楽天的に経済的成功を謳歌し続けることのできたアメリカ合衆国の人々が、絶望や根本的懐疑に到達したのは、もっとあとのベトナム戦争であったかもしれない。)

「転換点」以前の音楽作品は、その明瞭な引力作用の集積によって、実にすっきりと持続的な主体=統一体を成しており、その主体というのも、単純な蓋然性を備えたものであったので、イメージの素朴なモデル化への収束をゆるし、それゆえに、人々にとって「理解しやすい」特性を示している。聴衆は、さほど努力することもなく、作品を了解し、言及することができた。
 ここでは、「転換点」以降の「前衛的な音楽」の志向を「非蓋然性の発見」としてとらえる。
  
 新ウィーン楽派による十二音主義は、聴衆にとっては「非蓋然的な」音空間を現出させる出来事だった。訓練した音楽家なら、あるいは楽譜を研究すれば、その音楽構成は理解可能なものとなるが、そうでない聴衆は戸惑うしかなかったろう。そこでは中心音という引力の源泉も消失し、旋律的統一性もリズム的統一性も意図的に避けられたから。
 それでも、ベルクやシェーンベルクの音楽は時としてロマン主義や表現主義の方向に傾斜し、すなわち中核としての「主体」をしばしばイメージさせることによって、過去の音楽とのつながりを維持している。一方でウェーベルンの音楽は、そうした「主体性」すらも抜け落ちたかのようにひたすら冷徹であり、聴衆はその作品に接し明確なゲシュタルトを感得することができなかっただろう。その音楽は完全に「非蓋然的」であった。
 ウェーベルンの系譜上に展開することによって、現代音楽は、一方では「主体」を想定した感性を保持する作品群を生みながらも、「最前衛」のシーンでは「非蓋然性」を追究したかのような、ラジカルな音楽が生み出されてきた。
 クセナキスの音の選択なども、極めて「非蓋然的」に見えるし、ケージも易経を利用するなど、「非蓋然性」を装うことが好きだった。
 そして保守的な「クラシックファン」たちは、現代音楽は「人間性を失った」「理解できなくなった」と嘆き、怒ったのである。

「量子が次の瞬間にどこに存在するかは、統計学的にしか説明することができない。」
 この現代物理学の発見は、20世紀の知の新しいステージのメルクマールとなる。
 さらに「複雑系」の理論は、無数の要素があまりにも複雑に絡み合った世界-システムにおいては、原因と結果を素朴に一対一対応で図示することができず、むしろすべては非蓋然的で、「偶然」であるかのように現出する。
 
 クセナキスによる非蓋然的な音の選択は、その作品の中に偶然的に「意外な」旋律(動機)をもたらすが、それは近代的な自我のさなかで選択を重ねた蓋然性の音楽とは全く異なった響きをもたらし、衝撃を感じさせる故に、私はそれを好む。それはいわば非-自己、非-主体(=他者性)の音楽としての特性を持つ。だが彼のオーケストラ曲を聴くと、すべてがランダムなのではなく、曲の大筋においては一定のフォルムを明らかに維持している。すべてをランダムにしてしまうと単に「わけがわからなく」なってしまい、むしろ退屈な音楽になるだろう。クセナキスの場合は、作曲者=聴取者の主体性を、比較的蓋然的な構造(高まるクレッシェンド、堰を切って荒れ狂うトゥッティなど)の中に維持しつつも、絶えず蓋然性=他者性との遭遇を用意しているという、両面性がうかがえる。そこが彼の音楽の魅力なのである。
 完全に自己がなければ、他者もない。他者がなければ、自己もない。この自己-他者の構造は、フランツ・カフカの小説世界にも通じている。そこでは共存不可能なまでに排他的な自己と他者が、不可能性の中で共存しているというナンセンスが描かれており、自己は圧倒的な他者の他者性の前に、常に消滅ぎりぎりのところへ追い込まれる。そして、カフカにおける他者性とは、たとえば「城」の論理のように一見して非蓋然的な「論理」なのである。カフカは常に、社会をうごかす非蓋然性に吸い寄せられていた。
 
「好きな音を組み合わせながら自由に書く」ことから出発した私の音楽は、むしろ旧来の主体性の音楽としての側面が強い。が、現代音楽を学ぶにつれて、徐々に非蓋然性を組み込んでいくことを試みてきた。そうでもしなければ、私は自己の自己性という重力に、窒息死しかねなかったのだ。
 私は「他者性の音」を探している。
 ではいかにして、「作曲する行為」における非蓋然性を発見しうるのか。セリエリズムや推計学のような手法に頼らずに?
 私は「作曲する行為」をシステム理論と複雑系の視点から捉え直そうと思っている。この点については、後日また説明を試みよう。


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