情念と怨念のFire
textes/notes/雑記
written 2015/7/21
コンペティションとも依頼とも関係なく、自由な気分で書き始めたピアノ曲が数日前、完成した。これを2011年から断続的に書き継いでしばらく放置していた「23の前奏曲」の一つとした。
Splash of Fire Fireは情念の火である。情念という日本語は、emotionともfeelingともpassionとも異なって、どろどろとねちっこく、理性によって抑制されるどころかするすると忍び入り、やがては理性をも支配し、その「念」は身体からも離脱して超自然な作用をおよぼすような、非常に日本人的な概念だ。
欧米のホラー映画は結局のところ、明確な個体<殺人者>に追われ逃げまどうサスペンス・アクションに過ぎない(アメリカン・ホラーの主人公たちは、家族も友人もみんなとっくに死んで街も破壊されてるのに、どうしてあんなに自分だけは生き延びようともがくのか、私には不可解だ)が、和製ホラーの核心は「怨念」の鮮烈な実在そのものが視界に顕現するという、その情況にある。
負の極限まで煮詰められた情念は、空気の中にあふれ出し、世界に不穏な色を混ぜ入れ、さいなむ。
さて19世紀的な西洋ロマン主義を黙殺しながらも、その実ロマンティシズムや表現主義に傾く私の心性は、曲作りに際してもそこに燃え上がるような情念を注ぎ込み、その高揚を衝撃としての姿で、リスナーに示したいと密かに企んできた。ここ数年はもっと「現代音楽」一般に近づこうと、あえて無機的で非-情緒的な表現をてらうようになってきたものの、やはり情念を音楽のなかで解放したいという欲望はやみがたい。
「左手で16分音符から32分音符で奔流のような伴奏音型、右手で情熱的な旋律を演奏する」というような様式はあまりに前-現代的で時代遅れもはなはだしいので、私はしばらくはそれを避けてきたのだが、今回の曲「Splash of Fire」では再び活用している。
なんとなくこの曲を書いている最中に、いろいろなことを思った。
J.S.バッハのフーガの堅固な構成の音楽に魅せられて始まったのに、私はある時期から「知的構成」なるものを拒否するようになった。それは近代性からの逃走の一環であったが、中世やルネサンス期のヨーロッパ音楽を参考に、「主題」に支配される知的重力を拒絶して、ひたすら川のように流れる、変転きわまりない即興的な変容の様式を身につけた。その結果、私の音楽はどんどんとらえどころがなくなっていったと思う。これは、どうも「間違った道だったのではないか」と、今は痛切に感じる。
また、日本の現代音楽のオーケストラ公演に触れて、そこで演奏される楽曲がどうにもつまらないように思え、こんなものなら私の音楽の方がまだ見込みがあるんじゃないの? と感じたのだ。しかしこれは恐らく、とんでもない勘違いである。何しろ、それらの立派な作品というのは、周囲に認められたメジャーでプロフェッショナルな作曲家の手になり、一流の演奏者が選び、評者がこれを認め、観客も聴いて満足したはずのものなのだ。その価値がわからないということは、私の感覚が狂っているのである。少しずつ現代音楽のコンテクストに馴染んできたはずなのに、それでもまだ、私の調律はあまりにも合っていない。
この「自分は間違っている」という気づきはどんどん私の中で膨らんでいき、そういえば、私の人生も、現在の生活様式も、思考傾向も、心性も、人格も、そして創作音楽も、何もかも「どうしようもない間違い」でしかないという確信に発展した。
ネットの世界でさえ、私が結局は支持者を失い、愛されず、作品は評価されず、まったく共感を呼ばないという事実とこれはぴったり符合している。
そうだ、私の全ては間違っている。人間社会の正常な価値序列をまったく体得しないままに、さしたる努力もせぬまま、好き勝手なつぶやきを垂れ流しているだけなのだ。
そしてこの間違いはもはや修正不可能なところまで来ているため、私の<未来>にはまったく何もないことは明らかだ。
だから私は、この世に「怨念」を残す以外に何もすることがない。
私だけではなく、ネットも含めた今の日本社会には「呪い」ばかりに満ちあふれているが、そのようなしょうもない「出来損ない」であるという点でのみ、私は多数者であるのかもしれない。
私が「音楽」に何を求めてきたのか、よくわからない。自分の構築した奇妙な作品が、もしかしたら他者とつながってくれるかもしれないという幻想を抱いたこともあったが、もういいかげん、夢を見る歳でもない。
もうすべて終わってしまっても、一向にかまわないと感じている。政治的側面でも、日本はいよいよ狂ってきて、結局は全然身につかなかった民主主義のセオリーがぼろぼろに崩壊しつつある。この時代状況も、私自信のカタストロフとうまく同調しているではないか。
ただ、私はまだもう少し、やり残したことがあると思っている。それはさほど多くはない。私はひっそりと自分の実験室にこもって、もう少しだけ、やはり誰の共感も期待できないような奇妙な試みを続けるだろう。
私は最後まで理解はされない。人に理解されないままに死んでゆく者は無数にいる。無名の屍が崖の下に転がっている。
私には結末が見えて来たように思えるのだ。残ったパズルのピースを数えておこう。
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