コンチェルティーノ、冷笑を超えて
textes/notes/音楽
written 2015/6/1 [ updated 2015/6/14 ]
[2015/6/14動画作成、追加]
今回完成にこぎつけたのは、久しぶりに「VOCALOID初音ミク」をフルに使った曲。多声的でしばしば電子的に処理されるボーカロイドと、リズムパートなどエレクトロニカ風なエレクトロニクス音、これらに拮抗して躍動するアコースティック・ピアノをフィーチュアした「協奏的」作品である。
実際にコンサート等で生ピアノで演奏可能なように、バックトラックと合わせるのが容易なようにと考えて、ずっと明確なビートを、テンポ一定で鳴らすスタイルにした。コンサートでは、電子音トラックの「カラオケ」オーディオファイルを再生すると同時に、クリック音のみのメトロノーム・トラックを同期させて陰で再生し、ピアニストだけが後者をイヤホンで聴きながらテンポをキープするといった手法もあると思うが、今回の作品はそうせずとも、実際に鳴り渡るバックトラックがはっきり聞こえさえすれば、ライヴ演奏が可能だと思う。そういうふうに設計した。
この曲の構想に入ったのは、コンペ向け作曲の連投が一区切りつき、依頼の作曲も終えて、自分のやりたいことを何も気にせずにぶちまけてみたいなと思った時だった。
Macにもネイティブに対応した「初音ミク V3 バンドル」(英語版同梱)をこの際、思い切って購入した。オリジナルのミクの声はあまりにも声優声優していて好きじゃないが、これに入っている「sweet」の声は気に入った(か細い感じの、かすれた声)。どのバージョンの初音ミクも、これまでどおりジェンダー値を上げて(太く落ち着いた、やや男性化した声にして)使っている。
ただしボーカロイドを歌わせるAUプラグイン・ソフト「ピアプロスタジオ」が使っている最中にやたらしょっちゅう落ちる(Logicともどもシャットダウンする)し、「トラックを(wavに)書き出し」機能を使っても何故か途中までしか書き出せないし、リージョン同士をくっつける機能も後日対応予定、曲途中での拍子変更にも未対応(将来対応予定)という点など、どうも困る面も多々あった。クリプトンさん、早く何とかしてくれ。
さて準備と構想練りは済んだものの、実際に書き始めると、特に前半はかなり悩んだ。いろいろなことを考え、「どうしたらベストなのか」「自分は何がやりたいと思っているのか」等、ひたすら自問の連続だった。(まあ、こういった作曲中の呻吟はいつものことなのだが。)
まず第一に、この曲は私にとっては「エンターテイメント作品」であり、一般の市販音楽より変化が多く変拍子も使っているとは言え、ビートがずっと鳴り続けるスタイルだ。たぶんこの時点で、ピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンなどは激怒して拒絶してしまう。20世紀以降の前衛音楽の系譜は、あらゆる「反復」に敵意をむきだしにする。彼らは反復を「幼稚」と決めつけ、それを出来るだけ避けようと頑なだ。
だが、リズムシーケンスの繰り返しも、旋律の繰り返しも、どの世界の民族音楽(原初的?自然発生的?音楽)にも共通して見られる基本的で重要なファクターであり、広い目で音楽文化を見渡したとき、それらが全く存在しない音楽の方がよほど「不自然」で「異色」である。反復と周期性の規則はむしろ、人間の脳の(身体の?)自然な欲求であり、人と人とのあいだで生成する音楽=文化=社会の、基本的スタイルなのではないかと思っている(クロード・レヴィ=ストロース参照)。
日本でもお祭りの音楽などは、太鼓も笛もおなじフレーズを延々と繰り返す。ブーレーズ氏たちはこのような庶民社会の音楽をも「幼稚」と冷笑するのだろう。しかし、音楽とは「幼稚かどうか」という問題なのか? 民衆と共に在り、社会の中で一定以上に共有された「音楽」を、無価値として否定する資格をもつ「インテリ」とは何者なのか? どんなものであれ、民衆が共有された「場所」で共に楽しんでいる(あるいは何かかけがえのないものとして受け止めている)「音楽」を、誰が何のために採点するというのか?(もちろん、技術的側面では採点可能性や成熟度の測定が常にありうる。)
また、リズムシーケンスの反復の問題と同様、私は「旋律」をあくまでも重視する(「記憶に残り、口ずさみたくなるようなフレーズを書きたい!)点で、またもやブーレーズに冷笑される。現代音楽は、各音のつらなりの中に芽生える、単純に知覚可能な各種「分節」をも解体しようと実験を繰り返してきた。私はそれらの果敢な試みを評価するし、そもそも現代音楽は大好きなのだが、それでも、「分節」がゲシュタルトとして人の脳内に自然に明示され、それが情動や思考を揺り動かす、という心理的現象(=自然)の適用と解明を再度探究してみたいという気持ちを抑えられない。
そうした「原始性」「身体性」「自然」を幼稚として片付けるのは、19世紀までの西洋ではかなり支配的だった「思い上がり」であり、正しく知性が働けば理想としてのヨーロッパ文明になるはずだというヘーゲルの歴史観(途中で脇道に逸れて失敗したのが植民地化前のアメリカや太平洋諸島やアジアであるという)を、20世紀の各方面での猛烈な反省にも関わらず、いまだに引きずっているようにすら見える。この傾向は「知の権力」にしがみつきたがる権威主義的性格のあらわれであろう。権力の側に立てば、「弱者」を支配し隷属させ、富や栄光を独占することができるから。
リズムの単純反復のような原初性(身体性)を過剰に恐れることはない。私も批判的な知の吟味に耐えられるような音楽を書きたいとは思っているが、それとこれとは別である。知の営みと生体の原初的な欲求とを、無関係なものとして分裂させてしまってはいけない、それらは本来同根のもであり、共-現前しなければならない、というのが私の思想だ。人間は、理性だけでも感情だけでも身体だけでも無意識だけでもない。それらを含むすべての要素が共時的に織りなす複雑な流体が、人間である。私は、人間をよりよく理解するために、人間的な音楽を創りたいだけだ。
このように、ブーレーズ氏(正統的欧米「現代音楽」の、歴史的使命感に燃える大先生がたの代名詞として、この名を使わせていただく。実際のピエール・ブーレーズ氏とは関係ないかも知れない)からはさんざん軽蔑されそうな私の音楽。だが「エンターテイメント系」と銘打っているにもかかわらず、この音楽はほとんどのエンターテイメント系リスナーにも嫌われそうだ。なにしろ、全面的に無調であり、メロディーらしいものも出てきてはすぐに消えてしまい、流動と断絶が混在し、要所要所で小難しそうな「現代音楽」的な要素が出てくるから「わけがわからん」というわけだ。
両陣営から煙たがられる私の「コウモリ的」音楽は、「音楽のめざめ」など、以前から幾つか試みてきた路線である。このシリーズはごく一部の方には喜ばれたが、やはり多くの人気を集めたことなど決してなかった。
しかも今回は、ポップソングのAメローBメローサビー間奏ーAメローBメローサビ・・・といった基本パターンも結局解体し、むしろ(ビートを除けば)構成的にはより「私の現代音楽らしく」なったと言えるかもしれない。
このコウモリ音楽の路線は、実は自分以外には誰もここまではやっていないようだなと常々感じているところで、私は、まったくもって孤独である。仲間がいない。何故だれもこういうことをやらないんだろう? 無論、私だけがヘンクツなバカなので、私以外の優れた才能はこんなことしないという事情なのだろう。
私はいま「現代音楽」が気に入っていて、クセナキスやファーニホウ、バートウィッスルやその他ほとんど無名に近い現在の作曲家たちの作品をいつも聴いているが、そこにPOPな感じがもう少しあってもいいのではないか(ただしラウタヴァーラなどとはちょっと違った形で)、ごく一部のマニア(ブーレーズ氏率いるブーレーズ軍団)のあいだでしかなかなか流通しないこの「専門家的」なスノッブ音楽がもっているラジカルな鋭さを、もうちょっと取っつきやすい形で呈示できないか、そんなささやかな願いをもって、自分の「試み」を進めてきた。
私が定義するほんとうの「現代音楽」とは、クラシカル系の最前衛音楽の他にも、現在のPOPシーン、映画音楽、ジャズ、エレクトロニカ、ハウス、ロック、ボカロ等のサブカル、脈々と受け継がれていたり・まだまだファンのいる伝統音楽、民族音楽などなど、あらゆる共時的「音楽」をすべて包含した概念なのだ。
それら多分野同士を混ぜて単に「フュージョン」にするのではなく、各層の音楽がもつ美感やロジックを多角的に見直す視座を作り出し、各分野に限定的なヤワなコンテクストなど突き抜けて、「音楽」のラジカルな複雑性・多義性・通底する「意義」を改めて浮き彫りにする。おおげさに言うと、そういう目標だ。
しかし私自身の技術はお話にならないほど未熟(特にこうした路線ではミックス技術など、エレクトロ・ポピュラー系には必須の技術が弱い! また、もちろん前衛音楽としても書法がまだ色々と甘い)で、たぶん一生未熟なままで終わるだろうが、この奇妙な「道」をさらに進んで行けば、自分自身にとって新しい何かが見えてくるのではないか、いつかは。と淡く期待するだけだ。
もちろん、この路線の私の音楽もまだまだ進化の余地を残しているし、数年後にはまた少し違ったスタイル、サウンドに到達しているかもしれない。こうしてひたすら未知の領域の探索を楽しみ続けたいということだ。
もう少し付記する。
そういう機会は永久に来ないのかもしれないが、この曲を演奏会で取り上げる場合、ピアノのナマ音とバックの再生音とのバランスの取り方が非常に難しいだろうと思う。たぶんそこに最大の課題がある。ピアノはその気になれば、バックトラックなど吹っ飛ばしてしまうほどのパワーのある楽器だ。ピアノは響きすぎる。その響きが内部を満たし、支配するように、コンサートホールは緻密に計算されている。ピアノとエレクトロニクスの微妙なバランスに基づく共存は、デスクトップでは比較的容易なのだが、現実のコンサートホールではなかなかこうはならないだろう。少なくとも、全体サウンドのミキサーやイコライザーをリアルタイムで操作するエンジニアがいたほうが、本当はいいかもしれない。
しかし絶妙なバランスで演奏が実現したら、クラシック好きの聴衆にも、これは割と楽しんでもらえるのではないだろうか? そこで生まれる「楽しみ/喜び/快楽」がもたらす場所の輝きで、逆に「ブーレーズ氏たち」を冷笑し返してやりたい。そんな尊大でクソ生意気で思い上がった目論見も、ひそかに抱かないでもない。
なお、この作品に動画も付ける予定だが、ちょっと別に書かなきゃならないものがあるので、後回しにします。
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