「Nodes」全3曲が完結した
textes/notes/音楽
written 2014/5/14
先に「1」と「2」を公開した「フルートとヴァイオリンのためのNodes」だが、今朝「3」(終曲)を完成させた。
この曲に関する雑感を書いておく。
フルートとヴァイオリンというちょっと風変わりな組み合わせで、どんな音楽が可能なんだろう、と想像をたくましくしていた。私の所有するライブラリでも、この組み合わせは一つか二つしかない。ということは、よく演奏会に登場するデュオではないということだ。管と弦という組み合わせがノーマルでないので、この曲もやはり、誰にも演奏されず終わってしまうかもしれない。
高音域=エクスタシーという定式、漸次的に高いところへ「のぼりつめる」という欲求を、私の音楽はいつもかかえているのだが、高音楽器2つだと当然、最高音域に密集して絡み合う響きが、楽曲の頂点に立つだろう。
3つの小曲は、必ずしも連続して演奏される必要はないと思っている。だから私は「第○楽章」とは呼ばない。
Nodes for Flute and Violin - 1
2014/4/26完成
音源: http://www.signes.jp/musique/Chamber/Nodes1.mp3
楽譜: http://www.signes.jp/musique/Chamber/Nodes1.pdf
1曲目のNodes 1は、遅いテンポでいつものように茫洋と始まるが、書いていて途中で息苦しくなった。
この息苦しさは、いつも同じ事をやっているというマンネリ感から来ていたと思う。が、冷静に、いつもよりも少し丁寧に推敲し、自分の音を批判的に見つめることで、最後まで書き上げることに成功した。
これはたぶん、私の作品としては出来の良い方だと思う。途中で後続の楽曲を書くことに決めたので、短く、半端な終わり方ではあるが。
Nodes for Flute and Violin - 2
2014/5/5完成
音源: http://www.signes.jp/musique/Chamber/Nodes2.mp3
楽譜: http://www.signes.jp/musique/Chamber/Nodes2.pdf
2曲目Nodes 2は中庸テンポだが、ポピュラーミュージック的なリズムを使い、延々と反復する音型も用いており、「こんなの書いてもいいのか? なんだこれくだらねえ、と誰かに今にも叱られるんじゃないか?」と、書きながら不安でたまらなかった。今でもこの不安は変わらない。
この曲はただのジョークと見なされるべきなのだろうか。私自身がジョークとしてごまかしてしまいたい、と欲求していたような気がする。「おれはまだ本気出してないだけ」という言い訳として。遠慮なくポピュラーミュージックをズケズケやってしまう度胸も貫徹できず、ちょっと現代音楽めかしたり、ふらふらと中途半端なことをやってしまい、そんな優柔不断さを言い訳したかったわけだ。
最後まで迷いながら書いた曲だが、これは失敗作だったかもしれないと思う。もしかしたらこの「迷い」がずっと続いていて、続くNodes 3の作曲にも悪影響を及ぼしたかも知れない。
Nodes for Flute and Violin - 3
2014/5/14完成
音源: http://www.signes.jp/musique/Chamber/Nodes3.mp3
楽譜: http://www.signes.jp/musique/Chamber/Nodes3.pdf
3曲目Nodes 3を初めに十小節以上書いた後で、前曲とのつながりが悪いと思って翌日にはこれを破棄。最初から書き直すということを、5、6回繰り返した。
1個の独立した小品を書くのは易しい。何も考えずに、思いついたものを書き綴ればよい(ただし、常にそういうことをしていると私の場合、音楽がマンネリになってしまうが)。
一方、今回のように数曲セットのものを書くとなると、それぞれのピースに個性を持たせて差異を演出しつつ、かといってあまりにもバラバラになってしまわないよう、適度な同一性/調和を構成しなければならないため、後続の曲を書く際には他の曲との「関係性」を吟味しなければならないのだ。すると後の方の曲を書くときは、1曲目を書くときとは全く別の制限がかかることとなり、そのプレッシャーはなかなか心理的に辛い。このために、第2曲と第3曲では、私はあまり羽を伸ばせなかったかもしれない。
さてこの3曲目は若干ハイテンポだが、二人で演奏するのにあまり難しくならないように、と考えると、新古典主義的なリズムの取り方(8分音符のわかりやすい連続形とか)を使う方向に走りやすくなり、結果的に、旋律性と相まってちょっと懐古風味が強くなりすぎた。そこでそうした部分(「現代音楽」的観点から見ると「甘い」部分)を推敲の際に苦心してどんどん修正した。固定観念にとらわれない、自由なリズム。「ランダム」にしばしば近づく。たとえばクセナキス的偶然性。たとえテンポや拍子を最後まで変えなくても、自ら枠を突き破って踊り出すような自在さ・・・。しかし私自身の「甘さ」に起因して、結局は脱けきれない部分が残ってしまったと感じる。
ところでNodes 3の終わり方は、私自身の当初の構想とは大幅にちがっていて、自分でも予想外の終結部になった。クライマックスでもっとエモーショナルに盛り上げようと思っていたのだが、不意に、Nodes 1でやりかけた美的表出の続きに戻りたくなって、こうなった。この二つの楽器の組み合わせで、私が本当にやりたかったのはその辺にあったのかもしれない。
2つの旋律楽器を用いることによる、2つの線で織りなす音楽は、鍵盤楽器のインヴェンションを思わせるものがあり、「思いつき」を自由に書き継いでいくような気楽さも感じた。
最近の私は旋律を重視し、それを基本要素として楽曲を組み立てていく。おまけに「ときどき変わることもあるけど、おおむね明白に存在し続ける拍子」「だいたい2小節から4小節で区切りが来る、古典的な文節感」をこのNodesでは特にキープしているため、新古典主義的というか、ちょっと古めかしい装いをしている。
私の大好きなストラヴィンスキーの要素も出ていると思うし、今回はそれ以上に、高校時代に熱烈に信奉したモーツァルトみたいなロココ調、三十代の頃一時期魅惑されたフランシス・プーランクのおふざけ混じりの叙情歌の要素が、大きな影響として現れているようだ。つまり線的対位法を用いたちょっと懐古的な文体による、ある種のエレガンスをまとったロココ風のふざけた音楽。このへんが、現在の私の基本スタイルなのだろうか。ロマン主義的・表現主義的な激しいクライマックスへ到達しようとする欲求を今回あまり出さなかったのは、楽器編成のせいかもしれない。
というわけで、どうも「現代音楽らしさ」からはややとおい楽曲となったかもしれないが、それはそれで、ある種のPOPさを備えた、そこはかとなくチャーミングな音楽とでも思ってもらえれば救われる。まあ、さほど人からは愛されず、実演してもらえずに終わりそうな気がするけれど。
心的な激しい高まりを表出するには、旋律楽器なら3台以上ほしいところだが、まだ二重奏規模のものを数曲書いておきたいと思っている。
拍子記号を廃止し、小節線の区切りも撤去してしまうと実際のアンサンブル演奏は難しいのではないかと勝手に思っているが、どうなんだろう。次に書く二重奏作品では、もうひと工夫してみたい。
が、今朝Nodes 3を仕上げたときに、Nodesのエレクトロニカ・バージョンってのを作ってみたいと思いついた。こちらは実現するかどうか、まだわからない。
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