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ホラー映画を見る

textes/notes/雑記

written 2014/4/14


 昨年からスカパーで録画した映画を自室で見る習慣が付き、おかげで作曲や読書がはかどらなくなってしまったのだが、最近はとうとう、以前はイヤだったホラー映画も好んで見るようになった。
 とはいえ、「死霊のはらわた」式のグチャグチャ・ヌメヌメしたスプラッタ・ホラーより、心理的にぐっと来る怖さや、古い時代(70年代から80年代あたり)の古典的作品を中心に見ている。
 思うに、ホラー映画で人が「怖い」と思う感情が由来する要素には2つの分類があって、一つは、「心理的な恐怖」。もう一つは、血まみれの凄惨な死体とかグチャグチャ・ヌメヌメした異物のような「ショッキングな視覚像の心的ないし生理的作用」である。
 私は前者の方に特に興味があって、だからスティーヴン・キングの小説が以前から好きだし(ただしキング本人は後者のグチャグチャ・スプラッタ映画が好きらしい)、異常心理ものとか、パニックものとか、ただひたすらにずっしり来るドストエフスキーとかも好きなのである。
 子どもの頃は心理的に迫る恐怖をかもしだす映画は本当に怖くて、眠れなくなったりもしたものだが、いい歳になった最近はさすがにそうでもない。夜に頭脳が興奮してしまったときは抗うつ剤で沈静化できるし。
 ここ1年でスカパーで見た映画のうち、特に「心理的な恐怖」をあおってくれたのは「THE 4TH KIND」(2009米、オラトゥンデ・オスンサンミ監督)とか「パラノーマル・アクティビティ」(2007米、オーレン・ペリ監督)のようなドキュメンタリー・タッチのもので、何が怖いかというと、「何かが起こりそうでまだ起こっていない」その「間」が怖いと感じる。実際に奇怪な映像が出現するクライマックス・シーンは、逆に怖くないと思った。カタストロフィそのものよりも怖いのはむしろ、ゴール前の道程における<予兆・不安>なのである。いきなりフォルテッシモの大音量を浴びせられるより、ピアニッシモから徐々にクレッシェンドしていく部分の方が、興奮するではないか?

 その意味で、「エミリー・ローズ」(2005米、スコット・デリクソン監督)も良くできた恐怖映画だった。ホラーの古典的名作「エクソシスト」(1973米、ウィリアム・フリードキン監督)のニューバージョンのようなストーリーだが、ここで怖いのは、特に最初の方の、「何かが起こりそうで、まだ起きていない」その状態である。見えない敵=悪魔が、ビジュアル的に明確に確立されてしまうと、もう怖くない(特殊メイクのおかげで気持ち悪いとは感じるが)。この映画はホラーと裁判ものがうまく融合した作品で、ホラー映画には珍しく、結末の後味は悪くない。ふつうに楽しめて、わりとおすすめである。
「心理的恐怖」のサイドにある映画で、とりわけ印象的だったのは「反撥」(1965英、ロマン・ポランスキー監督)。そして「渇き」(2009韓・米、パク・チャヌク監督)。この二つは、家の中に死体がごろごろ転がっているという、その閉塞感に満ちた状況が、逃げ道のない悪夢にも似て、私には非常に恐ろしかった。
 日本の「リング」シリーズは、「ビデオを見ると死ぬ」という設定自体あんまり怖くないし、だんだんと貞子が古典的な「うらめしや」になっていくのが安っぽく陳腐で、映画よりもやはり鈴木光司氏の小説の方が抜群に面白いと感じた。

 迫り来る「何ものか」の不可視性が恐怖を醸し出す上記の例と対極にあると思われるのは、血まみれぐちゃぐちゃ死体などのショッキングな映像を売りにするスプラッタ系。ぐちゃぐちゃと本当に気持ち悪いのは好きになれないが、「ファイナル・デスティネーション」シリーズのような軽い感じのものを見た。
 このシリーズ、ストーリーはどれも同じで、寸前に見た予知夢によって事故災害を免れた者たちが、それでも「死ぬ運命」から逃れられず、次々と事故死していくというもの。このストーリー枠はシリーズ中、決まり切った定式なので、登場人物たちが「死ぬかどうか」ではなく、せいぜい「どの順番で死ぬか」「どんな形で死ぬか」に興味が行く。するとどんどん、「死」が重さを失っていくのだ。それぞれの「事故」はピタゴラスイッチみたいな奇妙な連鎖の積み重ねによって起きるし、そして到来する「死」はいかにも華々しい見世物 spectacleと化すのである。もはやここでの「死」は、それぞれに重さをもった個性的な「生」の終末という意味を失って、ただの血みどろショーとなる。
 必要以上に被害者らは内臓や眼球を飛び散らせる。ほとんどが即死の状況なのだから、「死の物語」としては、ポックリいくだけでいいはずなのに、これらの映画ではわざわざ視覚的に華やかなショーとしての死を繰り出してくるのである。それはもう、現実味も心理性も人生や社会の特性も、全部どうでもよくなってしまった、痙攣的な世界なのだ。

 私が最初に見た第5作「ファイナル・デッドブリッジ」(2011米、スティーヴン・クエイル監督)が最も華やかで、かつ、「死」が軽かった。「恐怖」は全然ないが、事故死ショーというアメリカンなサブカルチャー(いかにもこういうの、米国の若者が仲間同士あつまってポップコーン食べながら見ていそうだ)をのぞき見ることができる。そして、奇妙にも「また見たい」という気持ちになるのだ。
 こうしたスプラッタ系は、たぶんゾンビ以来の系列なのだろうが、恐怖というよりも視覚的な「気色悪さ」「不快感」を追求しており、時代と共に、特撮や特殊メイクのテクノロジー向上とあいまって、どんどんエスカレートしていくのだろう。人はさらに、もっと・もっと、不快な刺激を探していくのだろう。こうした感覚作用の意図的な逆撫での技術は、ジェットコースターなどと同じような原理に則っているかもしれない。

 ショッキングな映像を売りにする、ということでは、最近スカパーのイマジカBSで特集しているイタリアのダリオ・アルジェント監督の初期作品はなかなか面白かった。「サスペリア」(1977伊)で有名な人だが、猟奇趣味で、切り裂かれた傷口のクローズアップとか、異様にけばけばしい原色に満ちていて、その鮮烈さは、ミケランジェロ・アントニオーニ監督作に出てくる原色にも共通し、「芸術的」でさえある。昔の映画だから血の色もおかしいし、現在の目から見ればそんなにおどろおどろしい映像でもないのだが、「ショッキングな映像という理不尽さ」がシュールにちりばめられた奇妙な空間として、芸術的に見えてしまうのである。
 ダリオ・アルジェント作品の魅力は生理的な感覚にあって、生理的刺激の強いイメージを、スムーズだがどんどん話の枠組みが変容していってしまうような、「パロール的語り」のなかに埋め込んでゆく手際のシュールさが、どこか「音楽の創作」と似ているような気もする(音楽は元来根本的に無意味だが、生理的作用を活用し、その作用の中で受け止められる)。欲望のままにシーンを積み重ねながら、まとまった構成からは逸脱してゆくその即興性は、私の音楽作品のようでもある。
 特に「


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