新作「Delphinus」について
textes/notes/音楽
written 2014/3/21
チェロ独奏のための「Delphinus」(いるか座)を公開した。
約7ヶ月ぶりの作曲になる。その間、一つエンターテイメント系のを途中まで作っていたが、ボツにしたので。
久々の作品で、いろいろと迷いながら書いた。音楽における構造とは何か、反復とは何か、持続と切断とは何か、POPさとは何か、等々。作曲する=compose=構成する、という作業についての根本的な自問をかかえ、まったく答えを見いだせないまま、今回も書いてしまった。
この作品はセリーもなく、結局私がよくやるように自由で即興的な、流れるような楽曲となった。
星座とは、それ自体は意味のない星の光の集合を、人間集団が神話コンテクストに基づいて図形化した、「幻想の」ゲシュタルトである。このようなゲシュタルト化(自然の事象そのものの人間的なコンテクストへの回収)とは、思うに、人間の文化の根源的なスタイルをしめしている。
「いるか座」のタイトルをもつこの曲について言うと、私は海で直接イルカを見たことはなく、水族館のイルカのように、水中の暗がりにひそんでいてもやがて素早く水面に浮上し、ぴちぴちと撥ねながらスピード感のある芸=Danceを披露するという、そんなイメージに立脚している。
Delphinus for Violoncello Solo
掲載ページ: http://www.signes.jp/musique/index.php?id=836
2014/3/20完成 3分57秒
MP3:http://www.signes.jp/musique/Chamber/Delphinus.mp3
楽譜:http://www.signes.jp/musique/Chamber/Delphinus.pdf
冒頭主題(1)は個性的ではないし、全然重要ではない。音楽を始めるとき私がいつもそうであるように、朦朧とし、漠然とした気分をしめしているだけだ。
BPM66のまま静かに出てくるモティーフ(2)は、BPM98までアップテンポした後のダンス・シーケンス(3)へと変貌する。
この(3)のような音型は完全にポピュラーミュージックのものだ。現代音楽の「真摯な」愛好者には叱られそうである。
とはいえ、ポピュラーミュージックでは延々と繰り返されるだろうパターンを、ここではむしろ「変化」の中に霧散させた。パターンへの固執は「持続=静的自同性」を現前させるが、私の音楽は水のように流れゆく変化の相のうちに、「動的自同性」を措定しようとしている。「異なるもの」を構造の内に取り込んでゆくことで、大きな振幅をもった主体を現前させたいと思っているのだ。ただし、そうした多様性はややもすると「映画音楽みたい」という印象で終わってしまうので、「場面転換」とはちがう形で多様性を実現する方法を、現在の私は模索している。
BPM98の律動のなかで、だしぬけに登場する(4)のトートロジー。最後の音だけちょっとずつ変化しているものの、強奏されるBb-A-B-○の4音は、心理学的に「同一のものの反復」として認知されることに違いはない。冒頭主題(1)の後半部分の音型と一応つながりをもつこのモティーフは、興奮して「たたた、大変だ、大変だ、大変だ、大変だ、・・・」などと繰り返すパニック状態の人物の叫びを思わせる。このような音型もまた、「真摯な現代音楽作者」に叱られることは間違いない。ピエール・ブーレーズもカールハインツ・シュトックハウゼンもこのような「反復」を幼稚なものとして退けたし、それが現代音楽界の、現在の常識になっている。
しかし、思うに、この世に「幼稚な音」などというものは存在しない。問題はただ、各音楽要素とその関係性、あるいは「構造」が心的にリアリティを持ちうるのかどうかという点だけだ。
(4)の繰り返しは、情報理論からみても冗長性そのものなのだが、私たちが扱っているのは「情報」ではない。冗長な「反復」という心的現象が現れるその瞬間をもひとつの自然として「構造」の中に取り込むことで、さらに「(静的)自己」に揺さぶりをかけられるなら、私にはその方が好ましいのである。
(4)の部分はBPM98の部分のクライマックスに位置しており、興奮は崩壊し、あわてて自同性を取り戻そうとするかのように、(1)の主題が高音部で変形しながら奏され、この曲は終わる。しかし、簡単に言えば、単純でオーソドックスな三部構成でしかない。
前に「ブロック遊びのように作曲したい」と書いたが、これもまた、作っては壊し、また作るという無窮の行為のその最中の、つかの間をとらえたスナップショットとしての楽曲である。ブロック遊びとちがうのは、「作品」をいったん公開してしまうと、それ自体は壊されることなく、作者の掌中から離れてみずからの生を行き始めようと試みるように見える。作品と作者とのあいだには、回収しきれないような大きな隔絶が横たわる。私は作品ではなく、作品は私の一部でさえなく、「音楽」は私と作品とのどちらにも、直接的には姿をあらわしていない。
じっさい、「私の音楽」は、振り返ってみたとき、どこにも存在しない。それが存在するという痕跡すら、この世に残ることはない。ただ、私が黙々とブロックを壊し、また作ろうと試みるとき、なんとなく前方にぼんやりと見えるように、私自身が感じているだけだ。
「作曲」活動に復帰した私だが、次はどうしようか、もう一つチェロ独奏曲がほしい気もするが。
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