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突出したがる欲望

textes/notes/雑記

written 2014/2/16


 最近で一番おもしろかったニュースは、例の佐村河内守氏の、ゴーストライター発覚事件だった。
 私はあまり興味が持てなくて聴かずに終わったが、彼の交響曲のCDは、新作クラシックCDとしては破格の売れ行きで、知る限り、評判も良かったように思う。しかし「聴力を失った被爆二世の、魂のシンフォニー」などという感じで売り出されていたその商業行為は結局詐欺だったわけで、その曲を聴いて心底感動していた人たちは、どうもその「聞こえないというハンディキャップ」とか「被爆二世の運命的な芸術家神話」のコンテクスト上で感動していたように思われるのだ。彼らは、事実が露見したいまも、同じようにその音楽で感動するのだろうか?
 どうやら佐村河内氏は楽譜も書けず、かつてはロック歌手としてデビューを図っていたそうだ。
 いまどき芸術家神話なんぞに踊らされているライトな「クラシックファン」がおろかだったわけだが、まあ、刑法上どうなるか知らないが、一般的な倫理上の意味で、一種の「詐欺」だったと言えるだろう。
 この人はきっと「有名」になりたかったんだろう。ロックでもクラシックでも良かった。ただ有名になりたかったのだろう。

 女性の読者モデルが、武田信玄の子孫と自称して(どうやら嘘だった模様)有名になり、やがて姿を消して、その後万引きでつかまったという小さなニュースも見かけた。
 これも単に「有名になりたかった」人間の物語だ。

 YouTubeなどで、自分の奇抜な行動を動画として公開する若者たちも、「注目されたい」という素朴な野心に燃えているのに違いない。それで、コンビニのショーケースに自ら横たわる店員とか、集団で裸でジェットコースターに乗る大学生とか、そんなあほらしい「チャレンジ」がよく見かけられるようになった。

「有名になりたい」病は、未開社会では考えにくいので、近代的な・都市的な病いであろう。
 都市的生活は、常に「鳥瞰的視線」を上空に感じずにいられない。
 人が有り余っている都市では、人間はまさに統計学上の点でしかない。政治的にも、経済的にも、都市は統計学に基づいて運営されており、近似曲線から逸脱して存在する点=個人は、単純に無視される。
「鳥瞰的視線」はこのように、「無視する視線」でもある。
 そういった存在様式へのあらがいとして、有名になりたいとか思うのかもしれない。
 普通に生活していれば、自分のことを気にかけてくれる人が一人や二人いるだろうから、それで満足していればいいのに、どうもその日常的な人間関係も希薄に感じられ、もっと、もっと、注目され、「認められたい」と思うようになるらしい。
 
 私がかつて矢継ぎ早に作曲し、ネットで発表し、自己宣伝なんかもしていたとき、そのような欲求がまるで無かったなどとは言えない。
 ただし、自分がプロの作曲家になるなどということは、全然想像できなかったし、そもそも大勢の前に出るのが苦手なので、今の地味で普通な生活を変えようという野心は、無い。
 それよりも、肝心な作曲はろくなものができないし、自分の非才・無能はどんどん明らかになる一方で、ネット上の周りにいるクリエイターたちよりも、私は劣等意識のほうが強く、自己顕示の要求が少ない方だったと思う。
 自分はこんなに無能なのだから、有名になるなどと言う野心を持ってよい訳がない。そんな欲望が芽生えたら、必死で滅却しなくちゃならない。これはまあ、私の超自我、父-の-名、と言える部分による抑制なのだろう。

 ずっと曲を書いてない。
 そのうち自然と書きたくなったら、そのとき書けばいいや。と気楽に構えているのだが、いっこうに「書きたく」ならない。たまには頭の中で創作を試みるのだが、どういうわけか、MacでDAWもFinaleも開く気になれない。
 幾人かは私の音楽に好意を持ってくれて、ありがたい励ましもいただくのだが、私の音楽に全然価値を見いださない人もその何百倍もいるはずだし、どうも、「他者との関わり」という意味での私の音楽は、やはり死にかけているのかもしれない。

 しかし凡庸は嫌いではない。生活に満足しているわけではないが、下手に動いてさらにストレスを増やす勇気もない。
 私の生活は乾いてゆく。
 私は砂漠に到達するだろうか?


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