なんにもしていない
textes/notes/雑記
written 2013/12/22
永らくこのサイトも放ったらかしにしていた。
ついでに打ち明けると、作曲活動も「パッケージ論」の続きでプログレッシヴハウス風のを作っていたのが、8割がた出来ている状態で、1ヶ月以上放置している。
やる気がしない。
9月上旬にツイッターをやめてからは、他のSNSもほとんど使わなくなった。ネット上の「仮想」友人、知人ともすっかり疎遠だ。矢継ぎ早に作曲してネットに公開していたとき、同好の士がネットにいたり、社交辞令かもしれないが励ましてくれる人がいたりして、それが少なからず、私を動かす原動力になっていたのだろうと思う。
それを断ち切った結果、私は、もうなんにもしていない。
こうやって、ネット上に「雑記」を載せるのも久しぶりであり、世上のさまざまなことや音楽論や思想や人間論や、身勝手な放言をネットにまき散らす生活からは、もうずいぶん遠ざかった。この点は、よいことじゃないかと思う。今の世の中、馬鹿のたわごとが氾濫しすぎている。タコは黙っていた方がまだマシだ。だから私も黙った。
作曲行為とネット公開とを組み合わせた結果、私の楽曲創作は「社会的行為」になってしまっていた。だから、そこには様々な思惑がついてまわる結果となり、音楽そのものとはべつの次元で、余計な苦しみや妥協や企みが発生してしまったかもしれない。
今は、音楽的にも私は黙っている。
ほら、静かなもんだろう?
社会的に有意義な才能の持ち主だけが、「作品」を流通させていれば、世の中としてはそれで十分。あとのどうでもいい「作品」は日陰に眠っていればいいんだ。
最近は音楽を聴くことも減ってきた。
奇妙なことに、(単に同じ曲を聴きすぎたせいかもしれないが)大好きだったクセナキスや武満徹の音楽にはあまり惹かれなくなってきている。70年代の武満はあまりにもドビュッシーに近づきすぎている。一方、さほど好きではなかったブライアン・ファーニホウやヘルムート・ラッヘンマン(のミュージック・コンクレートではない作品)あたりが、しばしば心にしみいってくるようになった。
人は流動体だから、いろいろ、変わってゆくものだ。
また気が向けば、私は作曲するだろうし、あるいは、ずっと気が向かず音楽をやめてしまう可能性もあるだろう。どっちだっていい。私が何を作ろうが、それで何かが変わるわけではない。
ピアノ小曲とか、また作りたい気もするけれど、それは今すぐという欲求ではない。
私はまだ沈黙を続けるよ。
何かのニュースのナレーションみたいに、「復旧の見通しはまだ立っておりません」というところ。
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