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ツイッターをやめた。

textes/notes/雑記

written 2013/9/6


 先日急にTwitterをやめ、アカウントを削除してしまった。

 以前から私はインターネットの諸機能が文化にもたらす状況について、悲観的である。
 インターネットは情報を取得するためのツールとしては絶大な効用をもち、もはや無くてはならないものだが、有象無象が無価値で馬鹿馬鹿しいたわごとを垂れ流す「発信」のツールとしては、全体的に見て最悪である。

 ちょっと想像すればわかることだが、昔は、広範囲の人びとに向けて公然と発言するのはマスコミや作家、その他の有名人たちに限られた特権だった。「発言する権利」を獲得するためには、それなりの倫理と論理性を身につけ、何らかの点で群を抜いた人物として認められなければならなかった。
 しかしインターネットが情報取得だけでなく発信のツールとして広まると、発言者の知的レベルの程度にかかわらず、フラットでのっぺらぼうな地平に、あらゆる人々のくだらないたわごとや暴言が無限に並置される状態になり、真面目で優れた内容の発言よりもノイジーな暴言、放言が目立つようになってしまった。淘汰されないままにあらゆる言表が同等のレベルで流出する「表現の自由」と個人主義/自由主義は、インターネットの時代において、極限の醜悪さにまで達している。
 そしてもちろん、ここでわかったようなことを書いている私の言葉もまた、くだらないたわごとなのだ。ただ、書き付ける場所を、今回私は制限しようとしている。その点は後述しよう。
 ネットユーザーは「表現の自由」に関する規制に極めて敏感だ。もちろん、国家が「危険思想」を排除するために行う反=民主主義的な検閲は、歴史的に見て明らかに不当だ。ただし民主主義的な社会においても、社会風紀を守るために、たとえば児童ポルノの取り締まりや「青少年の健全な育成」を損なう類いのコンテンツは穏便に抑制されてきた。そうした倫理的な規制全般も、ネットユーザーは嫌うようになってきている。潜在的に自分たちのたわごと垂れ流しの権利を奪われることを過剰に恐れているのだろう。
 また、ネットユーザーのあいだでしばらく前から「情報弱者(情弱)」という言葉が出回るようになった。これなどは明らかに、自分たちの優越を保持するための価値付けである。
 これら、「内部」に居留し、自己の身の安泰をはかるための無意識的な共謀は、やはり「オタク」的な世界の一種と言えるだろう。

 いつの時代も本質的に庶民の体質は変わらないとしても、江戸時代の町人や農民が、国家の政治状況や天皇制やイデオロギーについて語り合っていたとは思えない。彼らの生活は日常的なパロールに埋められていたことだろう。あくまでも自分たちの生活、せいぜい近所の噂などについての。「ええじゃないか」や末法的世界観でさえ、ひどく漠然とした「気分」にすぎなかった。
 近代になってから「国家観」や「社会観」、「道徳」、個人ごとの倫理など、抽象的なテーゼが少しずつ語られうるようになり、メディア・テクノロジーの発達と普及によって世界は「情報だらけ」になってしまった今、人びとの日常的パロール(個々の発話)は、いちいちやかましく粘着的なディスクール(言説)に取って代わられてしまった(ように見える)。

 かつてツイッターアカウントを切り替えたとき、あんまり沢山の人をむやみにフォローせず、こぢんまりとやろうと考えたのだが、それでも結局、断定的・独断的・排他的な「イヤな感じ」のツイートがRTされて回ってくるのを避けられない。全般的に音楽をやっている人は言語思考に長けていないのか、発言内容の論理がおかしかったり、私の大嫌いな、右傾化した連中もそこに高い割合で潜んでいた。
 そればかりではない。
 自分自身もまた、馬鹿で攻撃的なツイートを垂れ流すようになっていくことを避けられないのだ。
「眼鏡屋さんなう」などというたわいもない発言ばかりなら世の中平和なのだが、やがて私たちは政治や、自分たちの関心ある分野(たとえば音楽)について、一人前の意見を繰り出すようになる。すると相反する意見の者たちと齟齬をきたし、ふだんお互いに我慢してスルーしていても、いつかは対立意見が亀裂を生じ、爆発へと至ることもある。(逆に、たまには爆発しなければストレスを抱え込んでしまう。)

 他の人みんなに当てはまるわけではないと思うが、インターネット/SNSというフラットな空間の大衆ノイズに、私は弱いようなのだ(自分に自信がないせいだろう)。
 暴力的な傾向のあるノイズ成分は、匿名性が高いほど強くなるから、完全匿名の2ちゃんねるが最悪、次いでニコニコ動画、さらにTwitterの順でひどく、逆に実名登録制のFacebook、Google+では少ない。実名制のSNSでは、自分と反する意見などを目にすることはあっても、そうそう罵り合いにまでは至らず、みんな紳士然とした姿勢を崩さないし、荒らして回るような者の姿も見ない。その分、あんまり「本音を吐露する」場所ではなく、リアルな人間関係の空間に近い自己抑制が作用する。
 

* * *



 現在の若者は知らないだろうが、インターネットがまだ普及しない時代があって、その頃すでに私のようにDTMを楽しんでいる者もたくさんあった。インターネットの普及に伴い、ネットでMIDIを公開することが増えたが、今とはちがってみんなそれぞれに「自分のサイト」(いわゆる「ホームページ」)を持ちそこで「趣味」を公開するのがメインだった。だからネットユーザーは基本的に独立し、それぞれの限界内でささやかに「発信」していただけだった。NiftyのMIDIコミュニティでは作品を発表し合い、批評し合っていたようだが、私はそことは距離を保っていたので、よくわからない。
 そもそも作曲した作品をネットに発表するようになってから、何かが少しおかしくなってきた。さらに、SNSの時代が来て、フラットな空間で他者の作品の横に自作を並べるようになると、おかしさの兆候は紛れもなくひどくなった。
 作品を作ることと、自作への他人の評価や社会的位置づけを意識することとが、結びついてしまったのである。本来それは全く別のことであった。いま、ネットというフラットな空間の中で、互いをランク付けしながら、そしてそのランク付けにおびえながら、じぶんの作品をパッケージングすることを強いられている。

 私にとって創作活動の理想は、3歳から6歳頃までさかんに遊んでいた「LEGOブロック遊び」の状態である。
 その頃私はブロックで何か空想的な乗り物などを作るのが好きで、いとこや近所の子どもと一緒に遊ぶこともあったが、一人で黙々とブロックいじりをしていることが多かったと思う。
 今はどうか知らないが当時LEGOブロックのコンクールなんて無く、人のことなど関係なく、自分で好きなように組み立ててはすぐに分解し、作ったものを誰かに見せるわけでもなかった。それで十分、それで満足だった。
 両親によって守られ、狭い世界の中で充足していた幼少期は幸せだった。
 ところがメディアや学校があらゆる手段で「教育」を開始し、子どもたちは「社会化」されていくことになる。
 絵を描くことも好きで、わりと得意な方だったが、学校ではもう黙って好きなように描くことはできない。先生が花丸を付ける。成績がつく。勝手にコンテストなどに出品される。
 絵を描くことは好きだったが、絵を社会の中に位置づけられることは望んではいなかった。しかし中学、高校と上がっていけばいくほど、社会はそのような共時態、競争、ランキング、社会内ポジション、歴史意識、ディスクールへと子どもたちを教化し、現在の社会通念と同化させる。

 音楽も、自分で創って自分だけが聴いているあいだは何でも好きなようにできて、楽しかった。音楽することの喜びはディスクールの中にはなく、ただひたすらに黙々と組み立てては壊すだけの、自己充足的な能動的行為の中にあった。なぜか他者の視線、他者のランク付け、他者のディスクールが作用してくると、私の場合、過剰に気を取られてしまうのだ。他者は私-の-時間を奪い去りにやってくる暴力そのものなのだ。

* * *


 ツイッターを唐突にやめてしまった理由のもう一つは、新しい曲を作った際に毎度自分で「宣伝」を入れる心苦しさにある。はじめのうちは、楽曲を公開すれば反応もときどきあって楽しく感じたが、最近はほとんど反応もなくなっていた。お義理や憐憫でコメントをいただくのも申し訳ない気がして、身が縮むようだった。
 反応の無い中で「宣伝」を繰り返すことに罪悪感があった。フェイスブックでも新曲の宣伝はしたが、1回きりだし、そもそもフェイスブックでは友人知人が少なくて、読んでくれる人もチェックしてくれる人も極めて少なく、宣伝効果はもともとほとんど無かったから、何も気にしないで済んだ。しかしTwitterでは、つぶやきはTLの中でどんどん流れて消えてゆくため、宣伝するのであれば何度か繰り返しつぶやかなければならない。つぶやけば、私のサイトの新曲のページは一時的にアクセス数が上がったが、気に入らないのか曲自体を聴くには至らないのか、やはりコメントはせいぜい一つくらいしか付かない状態になった。
 特に最近はポピュラーミュージックから遠のいていたし、そもそも私の音楽などたかが知れたレベルである上に「普通のセンス」からはちょっと逸脱しているので、コメントにも注目にも値しないのだろう。かつて私の音楽に興味を持って下さった方も、ある程度時間が経てばどんどん私から離れていき、その加速度は高まってきて、とうとう新曲をアナウンスしても何ら反応がなくなってしまったのである。
 こうなってしまっては、「宣伝」し続けるのも恥ずかしいし、むなしさがつのる一方だ。


 ツイッターを捨てた理由の最後は、「依存症」からの脱出である。いまや電車でも路上でもどこかの店内でも、人びとはスマホを絶えずチェックしている。PC、ケータイ、スマホあるいはタブレットという風に「端末」が人の身体に密着していくにつれ、人びとの意識はもはやこの地上にはなく、ネットという「あの世」にばかり飛んでしまうようになった。
 私にはこの状況は病気っぽく見える。情報取得のツールとしては素晴らしい所も多いが、コミュニケーションのツールとしては何かがおかしい。その証拠に、子どもたちがLINEなどやるとろくでもないことばかり起きている。
 インターネットは人類には早すぎたのではないか?

 さて私はツイッターをやめた。
 SNS全般をやめようか、とも思ったが、FacebookとGoogle+ではそもそもフォローされている友人が少ないし、自分もさほどチェックしておらず、のめりこんではいない。だから現状でも問題はなさそうに思え、とりあえずこのままにしておく。
 ツイッターでは、私はまだつぶやきが少ない方だったが(1日辺り平均4.8回だったらしい。ツイート数0の日もときどきあった。)、ヒマがあればなんとなくiPhoneでTLをながめる癖があった。これだけでもやはり依存癖と言える。
 だから、急にやめると、なんだか手持ちぶさただし、予想どおり寂しい感じが強かった。手元にあった一つの世界を失ったような気持ちだ。けれども、それは「本当の」世界ではないと思うし、ネットから絶えず離れられないという呪縛から解放されたような安堵感も出てきた。
 1回につき140文字というツイッターの制限は、日本語のような2バイト文字も1字と数えられる設定では、日本人は欧字圏よりはるかに内容の多いツイートをすることができるので、日本でとても成功している。チャット式のスピード感ある「流れ」と手軽さが、人びとの気に入った。しかしそれは人を依存状態に引きずり込むような、「魔的な流れ」でもある可能性がある。

 ツイッターでつながっていた知人たちとの関係を、私はいきなり断ち切ってしまったわけだし、新曲を公開したりこのサイトに何か書いたときも、彼等の大半はもう見に来ることがないだろう。
 こんなところでぐだぐだ書いていること自体が、アホで無用な放言ではあるが、ここは独立した個人サイトだし、SNSのようには放言は拡散していかないだろう。ひっそりとした、ささやかな場所だ。
「社会」の中にいちいちポジショニングされ、ランキングに組み入れられるのにうんざりして、音楽もやめてしまおうかとも思ったが、LEGOブロックを黙々とやったような、あの世界に戻れるなら、まだ音楽を作っていたいようにも思う。

 もはや守ってくれる存在はないが(母は存命しているものの)、私はもっとひっそりとした場所で、好きなようにブロック遊びをしたいと思う。いかなるランキングとも歴史観とも社会性とも関係なく、「自分の楽しみ」のために。それを取り戻したい。

(ちなみに、現在このサイトのトップページに「工事中」と書かれていて掲示板に書き込みできないのは、あまりにもスパム書き込みが多くなったのでそうしたのである。私に連絡したい方は――いないと思うが――「問い合わせフォーム」を使うか、FacebookまたはGoogle+でメッセージ下さるか、「IMSLP」の私のページに記されたアドレスにメールしてください。
要望があれば、更新の際にメールでお知らせする機能も考えてみるが、まあ、そこまでする方もいないだろう。 RSSフィードというものもあるし。)


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