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パッケージについて

textes/思考

written 2013/8/26


 たとえばマルクスのような理論を読んで腑に落ちないと感じるのは、人間と「物」それ自体との直接的な関係には、それほど重要性は無いのではないかという点だ。商品は「労働」の産物としての意味を持つというより、「労働」以前に、初めから別のコンテクストで「意味」として生成され、意味として流通していくのではないか。逆に言うと、流通するからこそ、そこに意味が生まれる。流通は意味の生産装置である。「生産すること」は単に従属的な活動であり、「流通」という高次の原則によって支配され、規定されているに過ぎない。
 マリノフスキーなど初期の人類学において、すでにそのことは明らかにされた。クラは流通するそのことに意味があるのであり、物自体と人間との直接的な関係は重要ではない。重要なのは物に与えられた象徴としてのレッテルである。
 また、マリノフスキーが描出する未開社会では、富める者は無償で他者にふるまい、蕩尽しなければならず、蓄財は悪と見なされる。レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』においては、もはや物ではない「女性」さえもが、流通/交換のなかで有意味化される過程が露見された。
 経済と文化一般は一体のものである。人間は流通/交換/交通(どれも「関係性」や「場所」に根ざした活動だ)のなかで生成される「意味」を要求することで、社会を形成してきたのではないかと思える。

 包装にアニメのキャラクターがプリントされたスナック菓子を、多くの子どもらが欲しがる。中身の菓子そのものは、別の商品と変わりない。子どもたちにとってキャラクターがプリントされていることが重要なので、中身の菓子という「物自体」は二の次である。そして、キャラクターという表象が貼られたパッケージのおかげで、他と変わらないはずの中身の「物自体」は、なにか味さえもが格別のものになるかのような、そんな意味体験に接し、子どもたちは満足するのだ。
 大人たちは子どものこのような欲求を笑うかもしれないが、大人の消費行動も同様のパッケージングによる意味操作に支配されている。現在の日本では、国産自動車の性能にはほとんど差がなく、どれに乗っても日常の用に困ることはないのに、買うときになるとアレでもないコレでもないと悩む。車種によってけっこうな金額差があるが、パッケージングによって付与された意味ゲシュタルト(イメージ)に魅力があれば、金に余裕がなくても高いものを購入する。

 とりわけ絶対的「消費社会」となった現在においては、人びとの消費欲望を惹き付けるのはパッケージングのゲシュタルト、イメージ、意味内容、コノテーションである。もはやパッケージは主役としての物を包む脇役ではなく、包むことで意味を生成する装置なのだ。
 こんにちしばしば、(私にもたまにその傾向があらわれるが)いっぺんにたくさんの商品を購入することでストレスを発散し、散財してしまう人がいる。とりわけネット通販は危険だ。後日じっさいに送られてきた商品が手元にくると、もはや関心を惹かれないか、下手をすれば失望する。結局それが「物」でしかないことが、彼を幻滅させるのだ。
 我々が真に消費しているのはパッケージである。既に「物」は二義的なものだ。パッケージを欲望し、それを購入すること自体が、経済/文化/社会行動として価値をもつので、マーケットに次々とあらわれるイメージを追いかけることが、世界にコネクトする唯一ただしい生き方なのだ。
「消費」という漢字は「消す」「費やす」から成っているが、イメージ購入においては何も「消耗」しない。それは「消える」ようなものではないが、かといって永遠でもない。イメージは次のイメージを呼び出し、その無限連鎖が人を「消費」行動に走らせる。その連鎖、そのとどまらない流れはまさに「永遠」であるかのように見えている。

 ほとんどの大人は、「広告」のキャッチコピーなど真に受けてはならないということを、知性レベルでは十分知っている。にもかかわらず、「広告」はイメージという形で消費者の脳内に蓄積され、商品の販売実績を左右する。このような「イメージ」の交換/流通は文化において、貨幣の交換/流通と表裏の関係にある。とにかく発信したイメージが幅広く定着さえすれば、商売は成功する。だから現在、インターネットを含めあらゆる場所にイメージが咲き乱れている。嫌と言うほどに。

「広告」は私の言う「パッケージ」の重要な一部をなしている。アンディ・ウォーホルはパッケージのパッケージ性を切り取って別の文脈(「芸術」)の上に露出することで、見る者に再認識を要請した。
「広告」以外には、商品を包む箱などの、そのものずばりの包装デザインや、商品が置かれるポジション、商品名、付与されるブランド名のイメージ、物自体の表層に配備されたユーザー・インターフェース(UIは物自体を覆うために存在する)、商品をめぐるあれこれの言説、貼り付けられた値札等々が、「パッケージ」を構成する。いつも言及されているのは商品の「物自体」のはずだが、情報交換、市場の領域に移ったとたん、既に「物自体」の姿はない。そこにあるのはただただ「パッケージ」だけである。

 音楽産業もまた、「パッケージング」の原理に支配されている。ポップ・シーンはまさにそうだ。ロック界のスターの反抗的なイメージも、平和を願うフォークっぽい姿勢も、すべてはパッケージングのための無意識の演出である。そして人びとはパッケージを購入する。
 いうまでもなく、AKBのような「アイドル」もまたパッケージである。この種のパッケージは「生身の人間」である「物自体」を隠蔽しきれないから、パッケージとして破綻することもある。アイドルがスキャンダルを起こして頭を丸刈りにしたり。こうした逸脱可能性をさえ拒絶したい消費者なら、より安全なパッケージとして、二次元美少女やフィギュア、ボーカロイドなどに向かうだろう。

 ところで、一方、クラシック音楽、特に「現代音楽」(シュトックハウゼンやラッヘンマン、ブーレーズなど)の愛好家たちは基本的に前時代の感性を保持しようとするマイノリティである。とりわけ現代音楽はそれに馴染み、価値を把握するのに、リスナーのほうでも時間と修練が必要だ。
 これら「近代芸術」の発展形である20世紀以降の芸術は、批評的な「知」が躍動する点に特徴がある。音楽素材を徹底的に批評し、再点検することで、「現代音楽」の難解さが生まれた。このような「知」の動きは、もともとが、一般的な社会の流れとは垂直に交差するものである。知は時代を批評する。知はパッケージを、経済を、批判し、解体する。
 従って現代音楽(現代芸術)は一般的なパッケージ性を拒否しようとする。だからそれが多くの人びとに受け入れられないのは、最初から決まり切ったことなのである。

 そのようにパッケージ性を解体してみせる現代音楽的な手際に、私はとても惹かれているが、一方では、音楽はもっとPOPであっていいんじゃないかとも考える。だからどんなに現代音楽らしい装いに近づいても、リスナーのゲシュタルト認識を阻害しないような明快な旋律線や、その筋には忌避されている「楽節の繰り返し」も多用する。これは「退行」と呼ぶべきものだろうか?
 それでいて、私の音楽は、たとえポピュラーミュージックに近づいたときでさえ、「パッケージ」としては失敗しまくっている。だから私の音楽は人気を得ることが決してないのだ。
「パッケージング」とは、あらゆる事物を体系的な形で「社会」に吸収し、経済を回転させ続けるための装置であるが、私はいつも中途半端にカオスを抱えており、「社会」一般からは疎外されて-在る(いや、自分で選択的にそうしてきたのだけれど)。

 作品から余計な要素を削ぎ落とし、狙うべき一点をはずさず、最善の方法で構成しなおしたなら、私の書く音楽も(前衛的な)立派なパッケージになるかもしれない。けれども今は、ヘボな学生のしょうもない失敗作のようなものしか書けないから、どうしようもないのだ。下手くそな三流のがらくたはパッケージ未満であり、文化的価値をもたない。
 カオスとは、パッケージとは反対のものなのだ。

 このように、私にとって完成形としての「パッケージ」までは極めて遠い道のりである。
 しかし社会(もちろんアンダーグラウンドでかまわない)に通用するような「パッケージ」に仮に到達したとして、そこに「音楽」は存在するのだろうか?「音楽」はパッケージ、いや、人間たちのあいだに滞留しうるのだろうか?
 そして私が目指しているのは果たして「パッケージ」なのか?

 私は結局社会を拒否し、社会に拒否され続けなければならないだろう。それはそれで、やむを得ない。けっきょく死ぬときは一人である。


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