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貨幣-系としての音楽

textes/思考

written 2013/6/5


 岩井克人さんの『21世紀の資本主義論』『貨幣論』を読んでみたら、独特な存在としての貨幣論が面白かった。

貨幣という存在は、みずからの存在の根拠をみずからでつくりだしている存在である。
(岩井克人著、ちくま学芸文庫『貨幣論』P104)

 この視点を音楽にも反映して考え直したら面白いんじゃないか、という誘惑にかられた。
 もう一つ、スチュアート・カウフマンの『自己組織化と進化の論理』は、複雑系理論に則りながら、生命の誕生から進化に至るまで、系の「自己組織化」が作用してきた、とする持論を展開しており、これも興味深かった。カウフマンのこの理論は社会制度や経済にも適用できるという。
 両者の思考を合体させると、貨幣という系がみずからの生成変化の契機により、自己組織化をおしすすめた結果、人間の共同世界において独特で絶大な価値をもつ貨幣の体系が形成された、ということになるかもしれない。

 マルクスは古典派経済学を引き継ぎ、「労働時間の長さが商品の価値を決定する」という考えを決して捨てなかった。つまりマルクスの頭の中では<労働-商品>という関係性だけが重要であり、貨幣はせいぜい<商品-商品>という交換関係を仲介する触媒としてしか、意義はない。岩井氏は『貨幣論』の中でなんとかしてマルクスの「可能性」を引き出そうとするのだが、岩井氏の言う<貨幣>の独自性に、マルクスは結局到達し得なかったのだと思う。

 貨幣はわれわれにとって、一見、あらゆる商品との交換を可能とする限りにおいて意味をなす。しかしあらゆる商品と交換が可能であるというその無限の可能性によって、貨幣は究極の多義性を獲得すると共に、非-意味へと到達する、と思われる。つまり何らかの商品価値=欲望とは異なった次元で、貨幣はそれ自体の論理で自己組織化し、世界中を駆け巡り、自己自身の価値を生み出しているのだ。

 さて音楽の「音」について考えてみると、音組織が構造体をなすときに、それ自体は非-意味の次元に属している。人為的につくられたものではあるが、意味性に基づかない何らかの法則に則って構成されたものであれば、それは「音の自己組織化」現象であるととらえられる。
 バッハのフーガに関してグレン・グールドが、それは音楽を自動的に生成する装置であると記述したとき、フーガにおける音組織の「自己組織化」について語っていたのだと考えられる。
 実際にフーガを書いてみると、いったん主題(と対旋律)を決めたあとは、ほとんど「自動的に」書き進められていくという実感を持つ。バッハの場合、こうした自動生成的な構造体の方向性を決定するのは主題の性格であり、そこから自己組織化運動が繰り広げられ、心的な主体が音組織に没入し高揚したとき、自由で即興的な、心躍るようなエピソード部分が炸裂する。
 フーガに限らず、「少ない素材を展開(反復、変形)して豊かな音楽を作ること」が、現在に至るまでクラシック音楽作品の精髄と考えられている。有名でわかりやすいのはベートーヴェンの「運命」交響曲第1楽章。「ダダダダーン」というアレが、楽章の終わりまでやたらと繰り返される。主題となるモティーフが徹底的に活用される構造。慣習では、こういうのを聴いて一般的なクラシックファンは「偉大だ!」などと感激するのだが、近代の楽曲においては、音組織の貨幣性はむしろ調性・和声やダイナミクスといったレトリカルな側面と密接に絡み合っている。しかし、調性音楽におけるそうした「意味作用」の面と、「音組織の構造」の面とは、本来は異なったものなのだ。構造はあくまでも非-意味だが、近代の<芸術家>はそれをさえ<意味>の文脈にぶち込んでしまう(とりわけ「運命」がそうだ)。音組織の構造が何らかの情緒/意味を形成するとすれば、それは近代型の物語=神話的コンテクストやレトリックのような構造-外のコンテクストと、明確に結びついた結果である。

 いわゆる「現代音楽」の端緒のひとつを切り開いたと思われるアーノルト・シェーンベルクは、十二音音楽という、完全に非-意味であるような音組織の構成法則を開発した。
 にもかかかわらず、シェーンベルク自身はロマン主義的な感情の強い人物であったためか、そこから引き出される「無調による不安感」「激しさ」「絶望感」「美しさ」などに作曲家自身が拘泥し、その結果、彼の作品はむしろ有-意味/情動的な風味が強い(ロマン主義、表現主義、耽美主義)。
 もっと明確に非-意味であるような音楽、つまり「音楽の貨幣性」に接近したのはウェーベルン以降の系譜ということになろう。
 ウェーベルンとその後継者たちの音組織は、ほとんどのリスナーに何の感情ももたらさず、従って無-意味(あるべき意味が欠如した状態)な何かとして受け止められる傾向がある。だが、本来極めて多義的であり、すなわち非-意味な存在[=貨幣]にほかならない「音」を、余計な<意味の文脈>から取り戻した功績は大きい。
 ウェーベルンに続くのは、感触から言えば、カールハインツ・シュトックハウゼン、ピエール・ブーレーズ、ヘルムート・ラッヘンマン、ブライアン・ファーニホウ、エリオット・カーターなどだろう。彼等の音組織の構成法はそれぞれに流儀が違うが、「意味」やロマンティックな情緒を求めて聴くリスナーを拒絶し、「何かよくわからないが退屈な印象」をもたらす点で共通する。
 だが彼等の「冷たい」音楽は、馴染んでみるとそれぞれに味があるし、新しい響き、斬新な音楽語法を楽しめる現代音楽リスナーにとっては定番である。彼等の音楽は、旧時代の人間的「意味/感情」からは離れた構成物として感じられ、それは「他者の響き」を持つ。この他者性に触れることで、リスナーはいわば「無我の境地」に似た静かさを体験することもできる。それはほとんど主体の主体性を没却するような境地だ。

 数理的理論に基づいて構築された音組織は、それ自体が自己組織化してゆくオートマティックなシステムであるが、しかし、作曲家は完全に機械的に音を配置しているわけではない。完全なコンピュータ・アルゴリズムによる作曲でなければ、どんなときでも、作曲家の耳(審美眼、嗜好、音と自己との関係性の意識)を捨てることはない。ランダムな音選択を用いていても、あくまでも「音楽的」な枠内で、作曲家は音を配置する。でなければ、音楽は単なる雑音になり、欠陥だらけのヘンテコなオーケストレーションになってしまう。
 つまり、自己組織的な貨幣の「系」である音組織は、それ自体(カントの言う「もの自体」!)がわれわれの前に直接現出するわけではなく、まずは創作主体と音との<関係>として、顕現する。私たちが貨幣の系そのものでなく、日常、直接的には欲望や経済現象に巻き込まれることで貨幣と接触していることと同じだ。おのおのが自己組織的に形成された二つの系は<関係>によって同居し、作用し合う。

 19世紀西洋ロマン主義の時代にあっては、理性/科学が自然を支配し管理統御しようとしたように、作曲家主体は音を支配し、自己の情感や思考を自己顕示的にアピールするために、音楽表現をツールとして活用した。ウェーベルン以降の「現代音楽」の流れは、そのような<恣意的な主体>を疑問視し、棄却し、近代的なロマンティシズムを抹殺し、音楽の貨幣的純粋さを希求したように思われる。
 ブーレーズのようにかなりの度合いで主体滅却的であり、貨幣的な=<他者性の>質感を強調する作風だと、やはり多くの人は(というか、私は)いささか退屈してしまう。この種の「退屈さ」は見方によっては「現代文化」の鏡像的反映だとも言えるから、「退屈さ」自体の価値を私は認めている。
 しかし一方では、貨幣的に構成された音であっても、リゲティやクセナキスの作品においては、その構造・その動きの躍動性が前面に出てくるため、スリリングな主体的体験として、「面白い」音楽体験が得られる。するとこれはもはや「退屈」な印象ではない。貨幣-系の自己組織化のダイナミズムが、貨幣と主体との心的関係性をまきこんで動いてゆくとき、一般的なレトリックによって意味/情緒が明確に呈示されなくても、そこにはちゃんと「感動」がある。フーガの構造的なダイナミズムが人を感動させるのも、もともとはこれであろう。

 貨幣としての音組織は、それと主体(作り手・聴き手)とが関係する、その関係性の中で<音楽>として生き始める。つまり貨幣としての音組織の系は「閉じられた系」ではない。
 自己組織化する貨幣(自己組織化する音組織)は、それと関わってゆく人間の心的な自己組織化運動に絶えずさらされているのであり、また文化的なコードの系などとも絡み合い、系は系と関係し合い、その関係が系となってまた別の系と作用し合う。こうして複合的な文化-系はさらに自己組織化のうねりをもって動き出す。
 従って、いつまでも「閉じた系」に閉じこもる必要もない。すべての系が複雑に絡み合っている<世界>のなかでは、一枚の貨幣のほんのちょっとした動きが、大きな振動源となる場合もあるだろう。
 文化も音楽も、個々の人間の心も、集団性も、すべては複雑系である。それらがいかに関係し合い、作用し合うかという問題が、世界と生に関する興味の中心である。


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