冬庭、「主体」への回帰
textes/notes/雑記
written 2013/1/6
昨年末ころから書いていたフルートとピアノのための二重奏曲「Way to the Winter Garden」を書き終え、公開した。
最近は西欧前衛音楽を意識してか、あるいは2006年以来「自己への配慮(管理)」を要求され、自分の感情性やロマンティックな表出を自ら抑圧する傾向にあったが、今回の作品は素直な情緒性を出していると思う。
ケージやブーレーズが指摘した「クライマックスの無効性」についてはずっと私を悩ませて来たけれども、今回ははっきりと、かなり強烈に、「クライマックス」を設置してある。
さらに、今回は、いくつかの主題モティーフを繰り返し呈示しており、いわばポップで、いわば古典的になっている。冒頭の主題、上から「B-F#-C-F」と下降する4音は、かなり全編を支配している。この4音は4度、減5度、5度という間隔で並んでおり、当然逆行形だと逆順になるが、4度と5度は転回すれば同型なので、これらと減5度(増4度)の組み合わせがテーマとなっている。
そして副次的な主題では短3度と長3度があいだを埋めるように活用される。
掲載ページ:http://www.signes.jp/musique/index.php?id=803
譜面:http://www.signes.jp/musique/Chamber/WayToTheWinterGarden.pdf
SoundCloud:
Way to the Winter Garden - for Flute and Piano by nt.signes
かつて私は、18、19世紀的な「クラシック音楽」的な拍節感、統治主義・予定調和的な構成法に疑問を感じ、近代的「構成」以前の時代の、ヨーロッパ中世音楽等を参考に、どんどん「クラシック的枠組み」を破壊していった。
たとえば、適当に拾い上げてみた過去の私の文章にそうした考えが窺われる。
しかし43歳になってみてつくづく思うのは、私が若い頃(現在の感覚では、私に言わせれば、40歳に達するまではみんなまだまだ「若者」である)考え、書き連ねたさまざまの理念は、そのほとんどがどこか間違っていたということだ。何から何まで「完全に」間違っていたわけではないとしても、一部を除いてイデーとしては、間違っていたと思う。せいぜい、真実の「一面」にかすかに触れていたにすぎないのではないか。
だから最近は、断定的にものを言ってしまうとどうせまた間違ってしまうのではないかという気持ちに襲われるから、あまり強く「主張」したくない。私の大好きなモーリス・メルロ=ポンティが、暗に呈示していたのも、万物の「多義性」であった。この多義性を、最重要な認識としていまの私は保持している。
さて、私の作曲法は若い頃の「逸脱性」により屈折してきたが、それはいわばプーランクなどのような若々しい芸術家の特権でもあり、若さを失った今では、自分の「逸脱性」そのものの先には結局、重要な果実は無かったなと思わざるを得ない。
かといって古典主義的傾向に戻ろうとも思わない。一方では、カールハインツ・シュトックハウゼンやヘルムート・ラッヘンマンのような「冷たい」音楽にも魅力を感じており、その点、自己矛盾はつづいているのだが、結局私の音楽人生は「主観性・情緒性」に回帰せざるをえないのではないかという気がする。もともとロマンティックな心性を持っているし、若い頃から音楽に求めてきたのもそれだった。だから「主体」に絶えず戻ろうと思っているのだ。といっても、「他者」や「外部」との「あいだ」を意味し、絶え間なく生成変化する流動生命体としての「主体」だから、どこかに閉じこもろうというわけではない。
今回の曲は、そういうスタンスで、「ポエジー」を持続し、叙情を破壊せずにまとめたから、たぶん、比較的わかりやすい曲なのではないかと思う。
ところで、昨年末書いたように、クラシカルな編成で書いた曲は、実際に熟達した演奏家に演奏していただかないと意味がない、と考えている。
だから今回の曲も演奏してもらうことを願っていたのだが、どうも私の楽譜の書き方、特に「拍子」のめまぐるしい変転のありようが、演奏の困難性に結びついているらしい。今日Composers' Forumでそういう指摘を受け、改めて考えさせられたところだ。
猛烈に変動しまくる拍子は、私の場合、ビートを自在に生成しなおすための措置であり、それによって「いかにもクラシック」な、古典的な拍節感をぶちこわすものだった。それは私の和声感覚と同様、長年の創作経験によって育まれてきた個人的な「スタイル」だと言っていい。
モーリス・ラヴェルなどは「古いスタイル」というイメージだが、楽譜を見ると「なぜこんな書き方を・・・」と首をかしげさせられるような、変な拍節感(小節の、妙な位置からフレーズが始まったり)の書法があるし、そうした「フランス近代派(?)」やストラヴィンスキーなどの影響から始まって、今の私の「奇妙な変拍子」は生まれたのである。
今回の曲は、テンポをM.M.58に取って始終一貫しながらも、16分音符から32分音符へとリズムが細分化していくことによって、体感的なテンポは倍速、4倍速と変容する。はじめからM.M.116にすれば32分音符の多用を避け得たのだが、116ではなく58という「遅さ」は、この曲の主張の一つなのだから、作者としては、やはり仕方がないという結論だ。言ってみれば、ガーデンへと向かう歩みはのろのろと遅いのだが、途中で細かい雪の粒が舞い、吹雪いたりもするために、あんな細かいダンス的音型まで出現するのだ。と、説明することもできる。後付けのいいわけだけれども。
以前シマノフスキの「Calypso」をMIDI化したとき、64分音符やそれの連符形まで頻出する楽譜にめまいを感じ、MIDI入力にあたっては、やりやすいよう倍のテンポで作業したものだった。
シマノフスキももはや「現代音楽」とは言えないが、彼でさえ、分母の変わる変拍子を使っている(私のように1小節毎に変わるような極端さではないが)。
私の拍子書法を「必然性がない」という人もいるだろう。しかし単に聴いてみれば、あまりそういうことを感じないと思う。必然性があるかどうかを決めるのは音楽内容と、それを聴く聴き手だろう。私は「必然性」はあるつもりだとおもっている。「ない」と言われても押し問答になる。「聴いてみてくれ。感じてくれ」としか言いようがない。
ただ、演奏者が苦労するのはまちがいない。アンサンブルも合わせにくいだろう。
「演奏してもらいたい」のだから、あまり激しい変拍子は今後少し控えめにした方が良いかもしれない(最近の現代音楽では一般的なように、拍子や小節線を完全に取り払ってしまう方法もあるのだが・・・)。
特にピアノ書法は、私のはかなり難しいと思うので、フルートだけとか、チェロだけとか、あるいは2本のヴァイオリンの二重奏とか、比較的気軽に取り上げてもらえそうな編成の曲を、今年はいくつか書いておきたい。
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