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見失われたコンテクスト

textes/notes/雑記

written 2012/9/30


 ソシュールによる用語を用いて言うなら、シニフィアン(意味するもの)―シニフィエ(意味されるもの)の結びつきは、固有のランガージュ(言語体系)のなかでしか決定されない。
 ところが、同じ日本語であっても、話者たちの価値観が多様化し、実際にあらゆる角度からの言表が交錯している場合、語が発せられた背景、コンテクスト(文脈)を理解しない限り、シニフィエを同定することは困難を極めるはずだ。
 目の前に存在し、呼吸し、動作しつつある他者を観察しながらであれば、コンテクストを探る手がかりはぐっと増える。相手の表情、声の抑揚、性格等についての知識、これらの情報が語のシニフィアン―シニフィエという意味作用を超えた付加的な意味作用(コノテーション)を豊かにする。こうした「対話」コミュニケーションにおいては、発せられた語は全知覚およびミラーニューロンをとおしてただちに「共有」され、「語」を分水嶺として「われ」と「なんじ」の(意識上の)存在が出発する。
 
 インターネットでのコミュニケーションが多くの誤解やいさかいを生み続けるのは、まさにこの、話者の身体としてのコンテクストが失われているからだろう。
 身体から・コンテクストから遊離した無数の断片的シニフィアンが集積し、膨大な「情報」として空を覆うのがネット・コミュニケーションの宇宙である。
 コンピュータは身体を無に帰してしまう。

 コンピュータは人間にとっての世界を単純なInput-Outputの連鎖による記号論的宇宙へと変換する。ここまで直接的に、人類が記号論的なシステムに向き合ったことは、かつて無かっただろう。
 身体も、「自己というコンテクスト」も、コンピュータ・ディスプレイの前では失われるため、人はしばしば異様な「全能感」にとらわれる。世界のチャンネルを瞬時に変え、語を読み、発し、いやになれば直ちに逃避し、匿名となる場さえあればあらゆる責任を放棄して他者を攻撃することもできる。この「全能感」が、無責任な言動を誘い、争いや、他者への傷つけへと駆り立てるのに違いない。
 コンピュータという記号論的世界での「全能感」を少しでも阻むものは憎まれる。スペックが低く、きびきびと動かないコンピュータを前にして、誰もが苛立ちの叫びをあげる。ふだんはそんなことにイライラすることもない人々が、豹変するのだ。
 この「苛立つ者への豹変」は、「ファミコン」以来のビデオ・ゲームをする人にもしばしば見られるし、人によっては、自動車を運転するときにも発動する。そのいずれについても私自身が経験しているのだが、これらの現象に共通しているのは、やはり「身体を喪失」したことによる「全能感」幻想であろう。

 コンピュータ、ゲーム、自動車運転、これらは人をその身体から解き放って一気に欲望を爆発させる。阻む者はすべて敵だ。自動車運転においても、周囲にいるはずの生身の人間が見えず、「あそこに別の自動車」「あそこに歩行者」という形で記号化された世界のなかで先に進むことを追求しはじめると、苛立ち、乱暴な運転にはまりこんでいくのだろう。

 プログラミングなど、コンピュータに携わる人々には神経症、ノイローゼ、うつ病などが多いと思われる。私自身も、PHPプログラミングをやたらにしていた頃には、それはとても面白かったけれども、時間も、日常生活のすべても忘れ、シンプルで電子的な記号論的世界へとのめり込みながら、メールの相手に苛立ちをつのらせるような、病んだ時間を過ごしていた。

 パーソナルコンピュータはどんどんハイスペックになり、ケータイ電話からスマートフォンへ、人間は絶え間なくデバイスに依存するようになってきた。こうした時代の流れは誰に求められないし、批判してもしかたがない。ライフスタイルはさらに「記号論的世界」の方向へと走り続けるだろう。

 さてコンテクストが失われてきた、という話に戻ろう。
 音楽について見ると、商業的なポピュラーミュージックの世界ではどんどん細分化が進む「ジャンル」ごとに文脈=コンテクストがあって、そこで価値判断される。だからむやみにジャンルをはみだしたり、ジャンルを無視したりすると、評価されることが難しくなる。
 他方、クラシック音楽の世界では、「前衛の時代」を経て語法的に多様化した現代音楽のシーンに関して言うと、新しい曲の「意図」について、かならず作者のコメントが求められるようになった。これは「現代美術」でもおなじ状況だと思うが、いちいち作者の説明を待たなければ作品を理解することができない、という滑稽な状況が生まれている。これは、現代音楽の「コンテクスト」が無数にありうるために、「作者の言葉」という補助的説明がなければ、作品の意味内容を確定できないという、困難な時代の病いを物語っていると言えるだろう(コンテクストは、ここではより多く「コンセプト」と呼ばれる)。
「コンテクスト理解」という、余計な手間を受け手が要求される点も、現代音楽や現代美術が、多くの人に愛好されない理由のひとつとなっている。

 どのような作品も、コンテクストなしにはありえない。作品は文化の一断面に属しているのであって、作り手も受け手も、何らかのコンテクストを無意識に利用することで、作品を「意味あるもの」に変換する。
 芸術作品もまた、「意味」として理解されるのでなければ、人々のあいだに根ざすことができないのだ。

 では、私は?
 私には私のコンテクストがある。それは私の(無意識を含めた)心的な流動であり、私の身体であり、私の歴史であり、現在という凝縮であり、私の思考・感覚・習慣のすべてである。私は、とりわけボーカロイドを用いた曲など、ポピュラーミュージック的なものも作ることがあるけれど、それらは商業的なミュージックシーンの各「ジャンル」のランガージュをあまり考慮しない。私のコンテクストは不透明であり、そうそう人に愛されるものではない。あくまでも私的なものであって、おそらく普遍性を持ち得ない。だから「人気」など期待できはしないのだ。単に音楽的感性が普遍性を有するものであったら、作品は広く支持されるだろう。技術的問題(それは決して小さな比率しか占めないわけではない!)を別とすれば、感性Xが統計学的に多く共感を呼びうるかどうか。問題はすこぶる単純である。
 しかし生というコンテクストは、ほんらい常に未完成であって、凝固したゲシュタルトになり得ないはずだ。閉じた円環のように完結したコンテクストなどというものがあるというのが、世間の幻想なのではないだろうか? 流転する文脈そのものは、普遍性という基準とは完全に独立し、隔絶して存在している。それが普通だ。
 私は未完成のコンテクストである。私は死んでもなお、閉じられることがない。
 私は、無意味という意味のコンテクストである。


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