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多義性と同一性(人間および音楽の)

textes/notes/雑記

written 2012/5/24


 私は40過ぎてなお若い頃の反抗心をひきずっているのか、「同一性」という概念がどうも好きになれない。アドラー - エリクソン流、北米個人心理学式の「アイデンティティ」という概念に高校生ぐらいの頃から私は反撥しており、「なぜ自己を閉ざされたものとして死ぬまで大事に持っていかなければいけないのか?」とあらがった。
 立ち止まること、あるいは「自分さがし」などと称してぼうっとひたすら自己言及ばかりするのは耐えられないから、かえって急に外面を変え自分を偽って見せたり、意外な選択をして見せたり、まるで考えの違う他者の思考に飛び込んでみたり。そうやって思春期以降を過ごしてきたのだが、今あらためて心理学的にうがった言い方で言うとそれは単に、他人の住む世界と比べて劣勢に立っている自分が嫌いで、「弱さ」そのものとしての「自己」から目をそらし、かえって他者=世界の側に荷担し、自己の卑小さをうやむやに抹消してしまおうという、卑屈な魂胆のあらわれだったかもしれない。

 自己否定、反=アイデンティティへの志向はまさに私がいま作る音楽に現れている。何かイメージが固まってくると慌ててそれを打ち消し、ただちに方向転換して別の要素を持ってくる。すると常にサウンドは錯綜し曖昧になっていく。一般的なリスナーには「よくわからん音楽」になる。この音楽は、たぶん、一度聴いただけでは明確な印象を残さない。

Riverhead Plateau written at May 23, 2012

Riverhead Plateau (from "23 Preludes for Piano") by nt.signes

 あえて自己擁護すれば、
「これは音楽というものの多義性を意識化しようという試みであり、19世紀まではステレオタイプなイメージでどんどん<個性的な>楽曲をでっちあげることができたが、現在の文化状況を反映するならば、つねに多角的・多層的なパースペクティヴが求められるために、音楽もまた屈折し、一見曖昧な複合体にならざるをえないのだ」
 ということになるだろう。
 しかしこの「曖昧な複合体」は、もしかしたら、「自分の感性にもっとも適合した楽節」から逃避する(自己否定する)衝動から生まれたものだということにすぎないのかもしれない。

 音楽は昔から抽象的な芸術と言われているが、少なくとも近代西洋音楽では音の織物によっていかに脳内に「ゲシュタルト」を形成するか、ということを目標にしていた(そういう言葉では表現していなかったが)。たとえばショパンの「革命エチュード」とかチャイコフスキーのバレエ音楽とかは、作品全体が見事に「ゲシュタルト」として提示されており、したがって多くの聴衆はたやすくそれを認識し、音楽についての言表が可能になる。近代西洋音楽の歴史は、音楽を言説化し、理性の監視下におくための努力の歴史であったから、楽曲は言表的把捉が容易になるように、性格的な「同一性」が図られていなければならなかった。
「作品」を経済行動の対象とさせることの可能な、こうした同一性原理は、そのまま20世紀以降のポピュラーミュージックに受け継がれている。
 同一性に傷を負わせようという私の志向は、だから反=社会的であって、もとより大勢の支持者を獲得できるわけがない。それは商品として経済のルートに乗ることは不可能だし、世のピアニストもこういう不可解な印象をもった曲をわざわざコンサートで取り上げないだろう。

 100年以上前には、人間はそれぞれ固有の「性格」を持っていて常にそれらしく行動すると信じられていた。だから19世紀音楽には「キャラクターピース」という考え方が可能だった。
 ところが現在ではどうか?
 むしろわれわれは、ふだんおとなしげで善良な、何でもない「普通の」人間が、突然残忍な犯罪事件を起こすことを知っている。「人間」なるものは誰しも不可視の領域を抱え、一義的にはその「こころ」のありようを語ることなどできない。これが「現代の人間学」である。
 そのような、秘められた怪奇、複雑な多義性を包含した人間という現象を時代が開示してみせるならば、私たちはそれを全面的に受け入れなければならない。旧態依然のステレオタイプな人間観にひたるのは懐古趣味にすぎるのではないか? 時代の病とその責任を引き受けなければ、現在に生きる意味がなくなってしまうのではないか? 不可視の闇を抱えた、絶え間なく変動する流体としての心は、「意識の流れ」程度の手法では決して筆記され得ないだろう。
 だから私は、そのように不可解で多義性をもった人間性の表出として、たぶん自らの内にもそうした精神的疾患(!)をとりこんだ人間として、そのありようを反射した複雑な音楽を作りたいのだ。
 つまり私にとっての音楽の現代性とはそういう人間観の所産であって、たとえばシュトックハウゼンやブーレーズのような前衛の理論などとはあまり関係がない。

 ところが悩ましいのは、複雑な混合体としての私の楽曲は、明確なゲシュタルトを持ち得ないことから、リスナーの記憶に明確に残ることがない(はずだ)。これは単純素朴な事実であり、バッハからドビュッシーまで、音楽界の常識では主題の性格が曲全体の性格を決定するのであって、そうした「性格=同一性」の構成原理に逆らうことは、近代以降の芸術作品としての在り方そのものへの背反である。
 すっきりと認知されうるから記憶に残る。だからヒット曲はいつも明確なゲシュタルトを持つ。心理学的に言っても、こういう伝統的な基本を有効活用するからこそ、音楽というものが社会的(経済的)意義をもってくる。
 そう考えていくと思考は堂々巡りに陥る。私は私流に書けば書くほど、社会的な意義を失い、人々に聴かれなくなってゆく。
 それは「現代芸術」のおきまりの宿命なのかもしれないが、そもそも私は「最前衛」の愛好家たちからさえ、愛されてはいないのだ。
 書くほどに孤独を深め、私はさらに混乱していく。


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