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「場所」の芸術

textes/思考/思想

written 2012/4/7


 音楽とは「時間の芸術である」とよく言われているのだが、どうもそれはちょっと違うんじゃないかという気がしてきた。
 カントも純粋理性批判の中で、感性の原則として「時間」と「空間」を二つの全く異なるアプリオリな系列であると指摘しており、一方アリストテレスなどを見ても、とにかく西洋では「時間」と「空間」を二つの対立する項目と見なす思考型がベースにあるようだ。
 しかしB. L. ウォーフ『言語・思考・現実』(池上嘉彦訳、講談社学術文庫)によると、ホーピ族には時間とか現在・過去・未来とかいう概念が全く存在せず、それでいて「ホーピ語では宇宙のすべての観察可能な現象を実用的、あるいは操作的な意味で正しく説明し、記述することができる」という。
 むしろ「時間」も「空間」も、混然ととけあったものとして実感されるのであり、これらを別々に論じるのは結局むなしいことなのではないか。

 音楽が時間の芸術、というのは、現代美術のモビール系作品を除き、絵画や彫刻は「静止状態」を完成形として示しているということに対して考えられたものだろう。
 しかしそうした「固定された美術作品」では本当に時間が止まっているのだろうか。鑑賞者は作品に対峙するとき、視線をおのずと動かしつつディテールを追うのであり、印刷された文学作品と同様、鑑賞者の自発的な運動の中に「時間」は間違いなく現前しているのであって、そのような主体の運動性を織り込まずに作品が作られることはあるのだろうか。
 音楽の場合、一般的に演奏者たちが打ち合わせしたテンポで一定時間音が連続し、この流れは不可逆的な強制であるわけだが、かといって音楽に「空間」の要素がないわけがない。音自体、空気などの媒質を振動が伝わることによって認知されるものだし、作曲家が譜面を書くのも、聴取者が演奏者や音源から一定の距離を置くことも空間的な現象だと言える。

 先日書いた曲「場所 Topos」の歌詞を考える過程で、そして書いた後になっても、私はこの「場所」なるものについて改めて深く考えるようになった。
「時間」も「空間」も包摂し、あらゆる関係性・ものの生死をも包み込み、さらには(西田幾多郎によると)「無」そのものさえ孕んだ「真の無の場所」として「場所」をとらえなおしてみると、音楽を含めすべての芸術もまた、この「場所」において生成し、消滅していくのに違いない。
 作品はいつも、既存の作品との、何らかの関係を結ぶことからスタートする。ゼロからの創造などというのは嘘っぱちである。私は常に、私がCD等で聴く他者の音楽作品や、自分の過去の作品との関係性を配慮しながら、新しい作品を作る。関係性の中からでなくては、何も生まれはしないのだ。
 そうして作り出される「作品」は、私と音楽的な「世界」との接触する(つまり関係性の充満している)「場所」において、そこに依拠して、存在を始める。
 そうして、もっと日常的な意味でも、音楽は「場所」性を明らかにしている。ライブなどを見ていると、まさにそれは「場所」において生成する何かなのだ。「場所」じたいが演奏者に作用していることは間違いないし、聴衆もライブのような所では、このような「場所」に吸引されて音楽的に一体になったかのような感覚に包まれるだろう。
 また、「音楽」が鳴らされるその「場所」は、作者と聴衆、あるいは聴衆と聴衆、作品と聴衆、といった組み合わせで新たな「関係性」が生成される「場所」でもある。

 札幌の北海道開拓記念館で行われている「北の土偶」展に行った。
 縄文時代の土偶など古代アートは一般に、「豊穣などを祈る呪術的なねらいで作られた」と勝手に推測されているわけだが、証明不可能な目的論などは、もうどうでもいい。作者の意図や、そうした「作品」がどのように使われたかといった具体的事実は永遠に知り得ないけれども、かつてそこに確かに、作者(たち)がいて、作品を見・使った人びとがいて、彼らの生活空間という「場所」なるものが確かに存在し、その「場所」において、あのような躍動的で生命感のある面白い(=心をうつ)フォルムの作品が生成しえたということ。
 制作行為の「具体的意味」は残らなくても、作品は残り、「場所」が存在したという事実をはっきりと証言し、かつてその「場所」に満ちていた、人びとのせめぎあう生命エネルギーの流れが、美術的フォルムとしてあらわれ、現代の我々にも不思議なうつくしさを放っていること。
 芸術作品の最終的なかたちは、ここにあるのではないだろうか。


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