統計学的に不確実な私
textes/notes/雑記
written 2012/3/25
統計データの中でも身近に思われるものの一つに、「世論調査」がある。
無作為抽出された人びとに、政権などについてのアンケートを取っているようだが、私はそういうのに当たったことがない。
ともあれ、「世論」なるものは統計データをもとに「形成」されてゆくし、それが実際の政治におおきな影響を与える。政権への不支持があまりにも増大すれば、野党が元気になり、与党政権は退陣に追い込まれる。だがこの「世論」の所有者とは誰なのか、ちっとも判然としない。
「とにかく変わってくれ」といったイメージからついに長年の自民党政権が打破されて民主党が与党になる。しかし民主党の失策がつづくと「政権支持率」は下降し、庶民の嫌う「消費税増税」が打ち出されれば民主党支持率は最低水準にまで落ちる。「原発」が問題だなんて、こないだまで大声で言っていたのは、亡くなった忌野清志郎さんや一部の左翼運動の連中くらいだったのに、今ではかなりの国民が「できることなら、段階的に原発を減らしてゆくべきである」と言っているらしい。
これらの流れは「世論」の大勢であるらしいが、こんなにやたらコロコロ意見を変えていく人間が、本当に国民の大半を占めているのだろうか。
少なくとも、新聞で見る限り、「世論」は私の政治上の意見とはちがうことが多いので、私は大抵の場合マイノリティであると言えるだろう。それでも、「みんな」が本当に、つねにマジョリティの立場に立っているのかは疑問におもう。
インドの数学者C. R. ラオ氏による『統計学とは何か』(ちくま学芸文庫)を読み、20世紀における「統計学」の躍進が、文化史上極めて重大な事実であったということを改めて考えさせられた。
19世紀までの思考体系においては、「原因」と「結果」がほぼ一対一対応で歴然としているように語られていた。カントもヘーゲルも、この思考の枠組みを超えることはなかったと思う。
しかし現実の「できごと」はそうではなく、(とりわけ人間行動が絡む場合には)常に「不確実性」が介在している、ということが、20世紀には理解されるようになった。
「まったく同じ条件」を用意したとしても、乱数は常にランダムな結果をはじきだす。それでも、データを蓄積していけば、「純粋なサイコロ」とは異なって、ある程度、結果する事象を予測できるようになる。その予測には、つねに的中率のパーセンテージが付されねばならない。
こうして「天気予報」が生まれる。同じような地形で、同じような雲の配置、同じような気温・・・といった過去の気象の統計データをもとに、「明日雨の降る確率は60%でしょう・・・」などという推定が成立する。
誰もが知っているように、天気予報は非常にしばしば外れる。だから当てにならない、という人もいるだろうが、あくまでもそれは「60%」とか「40%」とかの「確率」が語られているだけなのであって、外れる可能性が結構高いとしても、天気予報は現に役に立っているわけだ。
統計学が20世紀において極めて重要なものだったと思えるのは、とりわけ人びとの経済行動が統計学によって見事に管理されていったからである。
身近な例で言うと、よく知られるように、コンビニはその店舗での販売実績を統計し、出入りする客に若者が多ければ若者向けの商品を置くなど、販売戦略を微調整してゆく。これはコンビニでなくても、商店ではある程度やっているはずであり、私が住む地方都市のCDショップでは、売れない現代音楽のコーナーなんか存在しない。現代音楽の愛好家などというものは、全国民の中でも非常なマイノリティであるが、さらに、田舎には少なく(田舎では現代音楽なんて聴くチャンスがほとんどない)、東京のようなかなり大きな都市部に幾らか存在する、といったところだろう。
私は売れなさそうな音楽や売れなさそうな書物ばかりを愛好する変人だから、徹底的なマイノリティであり、経済の統計学から見れば「無視して構わないような、極微な存在」にすぎない。私のようなマイノリティのための商品を並べても、私以外は買わないだろうし、そんなリスクをおかさず、多くの人に売れるようなK-POPとかAKB48を並べなければ、店がつぶれてしまう。
かくして、資本主義社会は「最大多数の最大幸福」というベンサムのテーゼを見事に体現した社会となる。
政治もまた、国民の最大意見を反映しなければ選挙で敗北するため、「世論」に左右されて行かざるを得ない。
では、マイノリティの存在はどうなるのか? 知的障害者、精神病者といったマイノリティは、マジョリティのために整備されたこの社会には適合しがたく、彼らを救済するには「福祉政策」を思いっきり手厚くするしかない。けれどもそれは果てしなく金がかかることだし、やり始めればきりのない分野なので、「完全」な状態になることは決して無いだろう。
多数者が経済の恩恵を受け、多数者の主張が政治に影響するとしても、人は常に多数者であるわけではないだろう。政治的意見はいつも「みんなと一緒」とは限らないだろうし、貧困に陥ったり、重病にかかったりすれば、たちまちマイノリティに転落する。
そもそも考えてみれば、「マジョリティ」なる群衆は、統計学上に出現する謎の像=ゲシュタルトにすぎない。統計データを活用し、分析し、そこから政策・ビジネスを導こうとする人びとの主観の中にしか、彼らは存在しないのである。
統計データの中でみれば、我々一人一人の「個人」は極小の、ランダムに存在し、かつ移動し続ける「点」にすぎない。それらの点の密集(偏り)具合によって、統計観測者は「大勢」という像=ゲシュタルトを描き出すわけだ。
この世界観から見れば、我々「点」は、それ自体が何パーセントかの割合で「有意味でありうる」にすぎず、無視しうるノイズと見なされれば「存在しないもの」として扱われるだろう。
だから現代社会の不確実性は、個々人の人間存在の切実な問題となる。
「最大多数の最大幸福」を社会が追究するなら、個々人の「主体」はいったん捨象されなければならないはずなのだ。
現代社会が実はこのように、人間存在を不確実なものとして取り扱っているということに、ほとんどの人は何となく気づいているに違いない。けれども、だからといって社会をどうすることも出来ない。我々は不確実性を表現する量子に過ぎないのだから。
妙な本ばかり読み、現代音楽とかマニアックな音楽を好み、初音ミクなどというものを使いながらも、現代音楽の影響を受けた妙な音楽を作り続け、「大勢」からは注目されるわけもない無意味な存在である私は、ほぼ常時、統計からは除外されている。
しかし統計学上のゲシュタルトも、「主体」そのものでさえも、すべて「幻想」に過ぎないのではないか? 「自己同一性」すらが、本当は不確実性として捉えなければならず、自我の物語における「原因」と「結果」も不確実にしか結びついていないのだと知りつつ、好きなように生き、好きなように死んでいく過程で、ごくわずかながらも周辺の誰かにはかすかな影響を与える。その関係性のなかで、それなりに真摯に自己にとっての課題に取り組む。それだけで満足できるような精神こそが、必要なのであろう。
結局は。
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