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失敗した現代音楽の試み

textes/notes/雑記

written 2012/3/20


 今年に入って「幾何学詩集」と題し、2つのボカロ曲を立て続けにつくった。これらはボカロ曲と言っても、ニコニコ動画あたりで妙な人気を博している、オタク文化系の楽曲群とは一線を画した、現代音楽をふまえたエレクトロニックな前衛的作品だ。

 昨年後半、クラシカルな室内楽分野での「現代音楽」らしきものを幾つか書いたのだが、どうも今聴いてみても、あまり出来がよくない。特に「弦楽四重奏曲」や2つのヴァイオリン独奏曲は、制作にやたら苦労した割には、どうも良くない気がする。DTM音源の品質のせいもあるかもしれないが、作品として、そもそも失敗しているのではないだろうか。
 iTunes等でプロフェッショナルな、比較的新しい「現代音楽」を聴いて参考にしつつ、迷いながら少しずつ書いたのがこれらの作品だ。しかしそうした「中途半端な勉強」が付け焼き刃的な・生半可な手法となって、レベルの低い結果を招いたのではないだろうか。
 そういうわけで、私の音楽の「現代化」は、まだまだ全然進捗していないと言わざるを得ない。
 なお、ここで言っている「現代化」とは、ロマンティックで大時代的な私自身の感性をいかに乗りこえて、自己にとってもいかに「新しい」音を掴み取ることができるか、という、自己改造のプロセスのことだ。
 しかし自分の無能ぶりにはしばしばあきれかえるばかりであり、どうも過去の失敗作を聴き返すと落ち込んでしまう。

 エレクトロニカ的な路線で行くにしても、私がやりたいことは「現代音楽」的な鋭さを併せもった音楽であり、それはまだ聴いたことの無いような音楽なのだ。DTMerは普通、自分の気に入っている音楽を参考にして、それに似た作品を自ら作ることで満足を得るわけだが、私の場合、途中から「思考という病」に冒され、自己の音楽思考をより純粋に追求しようとし始めたところ、孤独にも、他の何かとは全然似ていない音楽を自ら作るしかなくなった。
 最終的には、ある種のPOP性を持ちながら、現代音楽的な厳しさや純粋さを維持しうるという、そんな音楽を漠然とめざしている。ところがこのPOP性というのも実はくせもので、普通の意味での「ポップス」とは、思考しないことによって成り立つ大量生産型商品のことだから、そこに前衛性をもちこむこと自体がいわば禁忌なのだ。禁忌との戦い、ということは、社会との戦い、ということになる。

 ともあれ、基盤となるはずの「現代音楽的緊密さ」を習得しようと、昨年はひとしきり室内楽に向かったが、上記の通りどうもうまくいかなかった。このへんは自分の限界かもしれないし、単に不勉強と怠惰の必然的結果でもあるだろう。
 自分のめざすべき音楽はなんなのか、ときどきわからなくもなるし、それよりも、自分がこんなに独自な路線で孤独な制作を続けることに何の意味があるのか、考えると全く見当もつかない。
 先日書いた「場所」の歌詞に即して言えば、私は自分自身が拠って立つべきところの「場所」を失っているのであり、つまり周囲の他者たちと隔絶しすぎているわけだ。私のしようとしていることは、誰も求めていなかったような新たな「場所」を、勝手に、予想外のところに開墾しようという、極めて無謀で能力に余る企てなのだろう。


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