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「幾何学詩集:場所」を公開

textes/notes/音楽

written 2012/3/17


 前作「超越 Transcendence」に引き続いて、「幾何学詩集」所収のボーカロイド(初音ミク)曲、「場所 Topos」を動画と同時に完成・公開した。
 前作がドラム音源のリズムパターンを多用した結果、なんとなく通俗的というか、陳腐な出来になってしまったので、今回はビートを抑え、ピアノやオーボエも導入したクラシカルな「歌曲」ふうの作品となった。エレクトロニクス面でも遊びっぽい、アバンギャルドな要素を強調し、部分的には音列作法(セリー音楽)も活用した。

曲名:場所 Topos(「幾何学詩集 Geometric Poems」より)
音源ファイル: http://www.signes.jp/musique/GeometricPoems/Topos.mp3"
歌詞: http://www.signes.jp/musique/GeometricPoems/Topos.txt
掲載ページ: 幾何学詩集

主題表:

 主題Aは冒頭のエコーつきピアノと、ボーカルの途中から登場するが、この12音音列の後半は、ふつうに演奏すればロ長調に聞こえてしまうかもしれない。オーボエで呈示される第2主題は11個しか音がなく、そのロ音(シ)を欠いている。
 音列作法を部分的に活用しているものの、基本的にはいつもの自由作曲法による曲である。
 思うに、ブーレーズやシュトックハウゼンが何と言おうとも、音列とか比による「システム」そのものに意味があるとは思えない。一聴してセリーを聞き分けられる人間はそうそういないし、聴衆はそこまで厳密に認識できなくて結構なのだと思っている。あのシェーンベルクでさえ、十二音主義による作品を「一カ所、音列を書き間違えている」と誰かに指摘されたとき、「それがどうした?」とつぶやいたと言うではないか。
 こうした数学的な「作曲システム」を活用することにはもちろん、意味があるのだが、それは要するに、旧時代のドグマや大時代的な「内的表現」とやらから離れ、まさに「他者」そのものであるかのような、意想外の「音」が流れの中に立ち現れ、書く主体/聴く主体双方に心的衝撃をもたらす。そのことに価値があるのではないかと思う。
 そして、私の大好きなクセナキスの音楽はまさに、その「他者の音」にあふれているのだ。コンピュータを活用しながら、「他者の音」を発見して、主体的な音楽の中に埋め込んでゆくクセナキスの感性が素晴らしいのであって、彼の用いる確率・推計学が素晴らしいのではない。
 だからこの曲でも、私は「他者の音」を求めて部分的に音列作法(といっても、かなり古いタイプのだが)を借りてきたに過ぎない。

 歌詞の方は、テンポが遅いこともあって、切り詰めたら意味がよくわからなくなってしまった。
 中村雄二郎の『西田幾多郎T』の一部を作曲前に読み直したので、「場所」に関する中村氏の考えが脳裏にあって、「コロス」という語が歌詞に流入してきた。もちろん、ギリシャ悲劇で主人公の背後で歌う群衆のコーラスのことだ。
 西田幾多郎の「場所」概念はかなり理念化されたものであって、どうも具体的な街の中などを指しているふうではない。私の歌詞とはニュアンスが異なるのだけれど、最後のほうで初音ミクがつぶやく「限りなくすべてを含む真の無の場所」という文が、いちおう西田哲学に由来している。

「幾何学詩集」次はちょっと変則的で自由なビート・ミュージックに再挑戦したいような気もしている。
 しかしその前に、そろそろ一度ピアノ曲に戻りたい。


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