終わらないポストモダン、汎-情報主義のパラダイム
textes/思考
written 2011/12/12
一口にポストモダンと言っても、論者のパースペクティヴによってさまざまな相を指して言われている。
音楽言論の季刊雑誌「アルテス VOL.01」に載っている、岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋各氏の鼎談の冒頭のほうで、岡田氏が、3月11日の大震災後数日経ってテレビで「愚にもつかないバラエティ番組」なども再開したのを見て「絶望」したと語っている。
この鼎談の流れでは、ポストモダン的な文化態様が、3.11大震災のようなもろにリアルな事件にでくわした後にもなお、何食わぬ顔で存続することに対する不快感を表明し、「(西洋)近代」をもポストモダンをも乗り越えた何かがやってくるのを心待ちにしている、というような期待感が表明されているようだった。
ここで言われている「愚にもつかないバラエティ番組」が象徴しているポストモダン性とは、そこから得る知識等が人生や社会に明確に益することがなくても、とりあえず楽しみ、笑いながら享楽できるものとして諸事象を提供する、その経済的・文化的態勢を指すのだろう。そこには、現在のこの文化は軽佻浮薄で、すべてが「記号」に還元された、(中身のない、うすっぺらな)エコノミー空間が人間存在を取り巻いているのだ、という認識がある。
こんにちの文化状況が「ポストモダン」と呼ばれるようになって久しく、とっくに終わっている、という人もいる。それは何をもって「ポストモダン」と呼ぶかによるだろうが、しかしある意味では、「ポストモダン」的システムは、現代人の思考パラダイムの必然的な帰結であって、代替の新パラダイムが出現しないかぎり、そうそう終わりはしないだろう、というのが私の考えだ。
消費社会、高度情報化社会、先端的「芸術」類の行き詰まりなど、「ポストモダン」を形成した要因としては、さまざまな次元が重なり合っているように思われるが、根源にあるのは、生命科学、情報科学やテクノロジーに由来する知の枠組みではないだろうか。
DNAの解明にしても、コンピュータ工学にしても、万物は「情報」の流通である、という汎-情報主義的な思考様式を結果としてもたらす。この「情報」というモデルは、極めてシンプルなものと想定されていて、わずかなビット数で表現されうる「記号」をモナドとして構築されているように見える。
記号の流通システムという興味に沿って、現在の脳科学ブームもとらえられているわけだし、なにより「インターネット」の席捲が、このシステムをそのまま体現している。
SNSや掲示板など、インターネットでの「コミュニケーション」では、短い言葉がシンプルに応酬される。そこでは自己も他者も、「人間存在」はまるで実在感がない。会話しながら、相手が何歳なのか、本当に男なのか、あるいは相手が本当に実在する人間なのかどうかもはっきりしない。あるのは、「向こうに他者が存在するだろう」ことを示す幾つかの徴表だけだ。
もちろんこれもコミュケーションだと言うことはできるが、風貌が見えないほど遠くにいる相手と手旗信号をやりとりする状況よりもさらに、おぼつかない。インターネットのコミュケーションの場には、空間や時間すらもが、共有される現実としては存在していないからだ。
日本人が「コミュニケーション」という言葉を盛んに使うようになった頃から、深さをもった人間同士の営為としてのコミュニケーションは、崩壊の速度をはやめたのではなかったか。
インターネットの「コミュニケーション」で徹底的に排除されてしまうのは、まずは「身体」であり、パソコンや携帯電話・スマホのような各種「デバイス」がこれに取って代わる。
「肉体は魂の牢獄」と考えた古代ギリシャ人はこの状況を喜ぶだろうか。しかしここでは魂/精神さえもが、「記号」モナドに分解されてしまっており、もはや統合的な実在ではありえない。あるのはただ漠然とした「われわれ、みんな」という、何か気持ちの悪いような、根拠のない一体感あるいは、「自我の拡散」だけであろう。
ところで「情報過多」の時代と言うけれども、必ずしも過多だと言えるのだろうか。
過多なのは情報が粉々に分解されて解き放たれた記号化作用であって、インターネットの「コミュニケーション」を体験してみると、むしろ対人関係としては致命的に情報が不足している。交わされるのは短い文章だけだから、相手の表情も、口調も、相手の身体の実在感も、ぬくもりも、匂いも、共に今世界内に存在するというその共有の「場」「時間」も、決定的に欠けている。
本来、人と対面して会話しているときには、すぐ傍に立つ相手が発している大量の「情報」を塊として把捉し、他者ゲシュタルトを同時的に生成しながら会話が進行するはずだ。
インターネットでは記号モナドが浮遊するばかりで、ゲシュタルト=像をしっかりと形成する前に、他者との接触は終わってしまう。情報量が少ないゆえにこそ、簡単にトラブルが起きる。
ゲシュタルト形成という、他者や世界と関係を持つために必須の心的能力が、ネット・コミュニケーションでは阻まれている点で、インターネットはみんなの好きな調性音楽には似ていない。それはむしろ、旋律線が崩壊し点が散らばっているかのような、無調の複雑な現代音楽のほうに似ていると言えるだろう。
しかしインターネットは、おそらく、テレビ等のメディアの延長線上にあって、記号消費社会とも言うべき文明の段階を素直に表象しているに過ぎない。
汎-情報主義、記号主義的な思考パターンからは生命的な呼吸の要素が欠落しがちで、記号はリアルを離れたちまち仮想的なものに紛れてしまう(というか、記号だけを見ればリアルも仮想も違いがない)。
3.11東日本大震災のような巨大なアクシデントではそのような非実在的空間が破れ、ぎりぎりの生のリアルさ、仮借なさが露呈した、と多くの識者は考えたようだ。けれども実際には、本当に甚大な被害を受けた被災者の方々や、何らかの形で直接接触したごく一部の人びとを除いて、「大量の傍観者たち」は相も変わらず情報のやりとりを楽しみ、好き勝手な意見やら感想やらを無意味に垂れ流し、大きな情報の波に身をさらし享楽していただけではなかったか。
現実に職務やボランティアでかけつけた一握りの人びとを除き、私を含め多くの日本人は「何もできない」無力感を再認識し、無能力者=無為者の遊戯場である、記号の世界に逃避していたのではなかったか。
人びとの期待を裏切って、日本の文化状況はまだ変わらないと思う。あれだけの災害にもかかわらず、ポストモダンに終焉をもたらすことは、まだできそうにない。
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