「現代的」であること
textes/notes/音楽
written 2011/10/2
才能も技術も学もないくせに、下手の横好きで20年もの間「作曲」をやってきて、数をこなしていくうち自然なかたちで、それなりの「和声感覚」が成長してきたと思う。
もともと音感もなく、アカデミックな修練を積んでいないため徐々にではあるが、いつのまにか独自の「響き」を勘で探り当てられるようになり、この音はダメだとか、こんな音がほしいとか、まさに直感的な作業を繰り返してきたその積み重ねが、自分でも意図的に変更するのは難しい「自然な」感覚として結実した。長年かかって得た感覚だから、人為的に即時には変えられない。
一方で私は「絶対に現代的でなければならない」という呪文に、若い頃から取り憑かれていた。これは何かの本から見つけた文句のような気もするが、何だったか、まったく覚えていない。
この「現代性」は、音楽の面だけでも様々な視点から特長づけることができるだろう。
しかしいわゆる「(20世紀後半クラシック界の)前衛音楽」に対しては、私はある程度以上の距離をとることが多かった。むしろ私は、「現代音楽」の概念を拡大し、最新のダンスミュージックやロック、アイドルのPOPソングのようなものまで含めて考えた。それはいかなる形をとろうとも、「現代人」の多くから必要とされている限りにおいて、この現代社会で価値として交換されている限りにおいて、間違いなく「現代音楽」であるはずだ。
「現代の音楽」という漠然としたすがたの、巨大な存在が世界に紛れてうねうねとうごめいている。その巨大な身体のほんの一角がすくいとられて、「ハウス」だの「テクノ」だの「実験音楽」だのという、わかりやすいカテゴリーに翻訳される(わかりやすい統一感がなければ、言及することができない)。
しかし「最新のひびき」をもった各ジャンルを巡り歩いたとしても、結局私は満たされない。それぞれの局面でそれぞれの音楽を楽しむことはできても、「現代音楽」全体のイメージはいまだ掴み取ることができない。
狭義の、一般的な意味での「現代音楽」というと、シュトックハウゼン等、20世紀後半以降の、ヨーロッパ・アメリカを中心とするいわゆる「前衛音楽」ということになるが、これらの「現代音楽」は旋律線や和声・音階・音色の連続性・情緒的表現性などが切断されているため、19世紀末までのクラシック音楽に馴染んできた人間には非常にとっつきづらい。
こうした「現代音楽」を吟味できるようになるためには、やはりここでも長い時間をかけた「慣れ」が必要だ。
最初は「全部おなじ」に聞こえるかもしれないが、長年にわたって聞き続けることによって、差異やそれぞれの特長を看取できるようになってくる。「現代音楽」のおもしろさ、美しさを感覚できるようになるのはそれからだ。そうなってくると、今度は中途半端に古くさいモダニズムや調性音楽をいまだにやっているものが、ひどくつまらないと感じ始める。それらは「隙がある」ように見えてくる。批判に耐えない。
要するに「現代音楽」の現代性とは、「批判」性にある。
19世紀で止まったままの調性的な構造、わかりきった情緒表現のための陳腐なレトリック、そうしたものに耐えられなくなったことから、音楽家は「現代音楽」の方向に向かう。
「現代音楽」はステレオタイプの表現を絶えず批判する。そのために旋律線や和声が中断されるのだ。音楽そのものではない何かを「表現する」という非本質的なありかたから逃走するため、様々な理論が考案され、楽器の奏法、音色、記譜法なども際限なく拡張されてゆく。しかし「実験」はあくまでも「実験」に過ぎない。結局のところいかなる「本質」が現出してくるかが問題なのだ。この点で「現代音楽」のレベルもからキリまで分化してゆくと言えるだろう。
音大に入るか、東京で暮らしていれば、もっと「現代音楽」は私の青春期からすんなりと入ってきただろう。だが私の人生は違っていた。北海道の田舎町で生まれ、育ち、就職した私は、インターネットがやっとマニアックな音楽を入手しやすくしてくれるまで、「前衛」に触れることは少なかった。
いまようやくそれらを聴きながら・自らの作曲で試みながら、私は「より現代的であろうとする努力」の途中にある。
もはや吉松隆、シルヴェストロフなど「人気のある現代音楽?」はまじめに聴く気にはならないし、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチあたりも、現在の耳ではその保守的な部分がどうも気になって仕方がない。理屈ではなく、感覚的に「これではまだダメだ」という認識を隠すことが出来ない。批判、断絶、破壊が不足している。
しかし破壊そのものを目標にしているわけではないし、シュトックハウゼンなどの「前衛」に対してはもっと耳に残るような、明確な「旋律」が復権するべきだと私は考えている。だがそれをどのように「現代的に」実現しうるか? これが私の課題だ。
現在執筆中の「弦楽四重奏曲」は第1楽章では、私自身にとっても過去に帰ったかのような、古風な線的対位法をふたたび用い、常に和声的でもあって、形式ばかりではなく新古典主義/モダニズムふうの響きを著しく示している。第2楽章、第3楽章と進むにつれて、より「現代的」になっていくはずだ。そうしなければならない。
バルトークなどの時代から、さらに批判的思考を強めたエリオット・カーター、クセナキス、そして21世紀の「いま」へと、進んでいかなければならない。
その先で、非才な私に何か実現できるだろうか?
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