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集団への融合と無名性

textes/notes/雑記

written 2011/9/14


 生後まもない乳児は、自己と外界とが分離しているという認識を持たず、自分という「個」が、世界に住む他者たちと同様に並列して存在している、といった世界観を取得するまでには時間がかかる。ラカンであれば、鏡の中の「自分の像」を認識し自己の身体を獲得する「鏡像段階」が必要だと言うことだろう。
 言語習得のレベルで言えば、まず保護者から呼びかけられる「自己の名」を学ばねばならないが、子どもたちを見ていればわかるように、彼らは自分のことを主語にする際、自分の名前を言う状態が長らく続き、「わたし」「ぼく」「おれ」といった一人称代名詞を使用できるようになるのは、鏡像段階よりもはるかに後である。一人称代名詞の使用のためには、「自己の名」の受け入れや、自己の身体の独立、世界中に自分と同じような主体が存在しているという世界観の認識といった、知的過程を経なければならない。メルロ=ポンティは、さらに「自己のパースペクティヴ」なるものを認識することが必要だと語っている。

幼児がその言葉(「私」)を使うのは、彼が、他人のパースペクティヴとは区別される<自分自身のパースペクティヴ>というものを自覚し、そしてそれらすべてを外的対象と区別したときなのです。

メルロ=ポンティ「幼児の対人関係」(1950-51) 滝浦静雄訳、『眼と精神 』(みすず書房)所収


 そのように苦労してやっと獲得した一人称代名詞には罠があって、「わたしたち」「おれたち」「うちら」「みんな」という形で共犯関係に進む誘惑が到来し、世界と再び未分化な状態にまで、しばしば退行する。
「わたし」と「わたしたち」とのあいだには、本当は無限の隔たりがある。それは単なる単数形/複数形の問題ではない。「わたし」が「わたしたち」に突き進むためには、自己の身体という、個体性の紛れもない孤立を無化する超越性が必要なのだ。この超越は、何らかの「集団」という幻想的ゲシュタルトを持ち込むことにより、イデオロギーや争いを派生させつつ、言説の歴史の大きなうねりをも作り出していくだろう。
 
「集団に帰属すること」は、自己の他者からの分離を取り消す精神的退行性によって可能になる。集団は他の集団や外部の他者を相対化することで、1個の主体であるかのようにふるまい始める(国家も、他の国家との遭遇によって国家になってゆく)。
 包含された個人は、非常にしばしば、「名」を失ってしまうようだ。
「群衆の中の一人」である限り、人は名前をもつ必要がない。そこではただ、粒子のように存在すればよいだけだ。この粒子は他の粒子たち「みんな」からなる「全体」に、未分化な状態で溶け込んでおり、情感も言説も共有していると感じられる。
 この状態(集団心理的な状態)では何よりも、個人の、個体としての身体と「名」が失われてしまう。身体感覚さえ全体性に溶け込んでしまうため、すべては情念の巨大な流れのようなものになり、ゆるやかな・あるいは激烈な狂気へと向かう。

 2ちゃんねるやニコニコ動画(のコメント機能)は最初から「匿名」が保証されており、毎度ながら暴力的な「言い過ぎ」や犯罪的書き込みをも抱えつつ、泥のような一体感の中、人々は感情丸出しで融合し合う。
 しかしアカウント名が表示されるSNSやTwitterなども含め、多かれ少なかれ匿名性があり人間同士が実際に顔を突き合わせることのないインターネットは、やはりこうした匿名的群衆の心理に向かう傾向がある。
 マスコミの記者なども、とりわけ個々の名前が出ることがない状態では、彼らは「マスコミ」という集団の一体感の中で身体拡張から権力の増幅を幻覚し、有名人に対してすこぶる横柄で失礼な態度をあからさまにとるではないか。集団の権力が、外部の「個人」に対しては極めて虐待的な態度をとりうることのよい例である。

 いや、実際に「匿名」(名前が秘匿されている)であることさえもはや必要条件ではなくなる場合もある。
 集団に内包され、自己の身体と隣人の身体との境界が消え去るその瞬間に、既に彼は無名の集合的主体に溶け込んだのだ。(結果的には、やはり「名」は棄てている。)
 モンスターペアレントやクレーマーは、たとえ実名を明かしている時でも、きわめて権力的な態度に出るが、それは「保護者」「客」という「優遇されるべき」集団の側に自らを位置づけるからこそ、そのようなスタンスをとりうるのではないだろうか。このような例では、実際には隣りに誰もいないのに、「幻想のみんな」が観念として強大化し、彼らの心を支えているのではないか。

 3月11日の大震災にあたって、Twitterでは突然に「日本は・・・」「日本人は・・・」という言説が大流行した。大きな災害を見て、何故か「日本」というクニのイメージに、みんながしがみつき始めた。(今でも、「がんばろうニッポン」などと、タクシーにステッカーが貼られている。あの「ニッポン」とは一体何なのか?)
 たとえば海外マスコミが、日本の被災者がこのような緊急事態にあっても整然と並んでいることを報じた際、Twitter上ではこれを広める書き込みがあいつぎ、どうやらみんな「日本人で良かった」などと涙しているようであった。
 なぜここで被災していない者たちが急に連帯感に溺れ、クニのゲシュタルトに(隠れるように)身を寄せ、海外記者という「外部の他者」のコメントにいちいち揃って感激しなければならないのか、これは不思議な現象であったが、そのようなエモーションの大きなうねりの中に、当時私自身もとらわれていくような、くらくらするような体験であった。多くの者はその空間でエクスタシーすら感じていたのではなかったか。
 まあ、冷たい都会の人々であっても、とつぜん故障して止まったエレベーターの中では、日頃の対人ポーズからは想像も付かないような熱い連帯に身を任せるものだろう。自分の身に危機が差し迫っていればエクスタシーどころではないだろうが。
 Twitterで興奮しまくっていたのは(私のTLで見えていた範囲では)、ただちに危険のない・被災していない人々だったので、震災はそのまま壮大で激烈なエンターテイメントと化したかのようだった。

 平常時には、人間はやはり孤独である方がいい。得体の知れない集団性に飲み込まれるのは恐ろしい。その抗いがたい流れがどこに向かうのか、冷静に判断する暇がないからだ。20世紀の初め頃、ファシズムの波に飲み込まれていった人々も、そうだったのだろう。
 おちついてすべてを見ようと望むならば、私たちは、絶対的に孤独でなければならない。孤独のきわみに至るまで、徹底的に孤独でなければならない。


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