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残された時間

textes/notes/雑記

written 2011/7/15


 十代の頃はレイモン・ラディゲに憧れていて、自分も20歳くらいで死ぬんじゃないかなと思っていた。
 二十代になると、モーツァルトやシューベルトのように、せいぜい35歳くらいで死ぬだろうと予想した。
 ところが、いつのまにかずるずると40歳を越えてしまった。たいしたこともない人生なのに、だらだらと過ごしてきている。
 自分の父は六十代で、姉は三十代で、ともに癌で死んだので、自分もやはり癌で死ぬにちがいない。あるいは交通事故等による、「あっけない死」にも憧れを持っている。だが「死」はいつ来るのか。
 定年退職まではまだ20年近くもあり(住宅ローンもほぼそれくらい残っており)、70、80歳まで生き延びるなどと考えると、気が遠くなるほど長い時間だ。
 しかしそんなに長生きするともしたいとも思っていないので、たぶんじきに死ぬだろう(希望的観測)。  そうなると、「残された時間をいかに有効に使うか」というテーマが問題になってくる。
 自分は特段優れた業績を残す人間でもなく、娘がひとりいるだけで、「家」を継ぐ者もない。「人生」にこれといった意味を求めることはもうないし、今突然死んだとしても、さほど思い残すこともない。それでも、自分の人生がまだ何年だか10年だか残っているとして、その間に何をしうるかということ。仕事は収入さえある程度入れば、自分にはどうでもいいものだと最初から思っており、家族は収入がうまく続いている限り、たぶん大丈夫だ。そうなると問題は、ただ、私の「趣味」というか(この言葉は嫌いだ)、自己の意志の能動性としてやってきている領域、つまり、作曲とか読書、音楽鑑賞に限られてくる。
 買い溜めた書籍もCDも、私が死ねば邪魔で処分に困るだけのシロモノであろうが、いずれにせよ現代人というものはゴミを蒐集し、ガラクタに執着する空々しい存在なのだ、と言い切ってしまえば開き直ることもできる。「残された時間」、好きなこと・やりたいことを優先しながら、へんに気張ったりもせず、時間を浪費していけばいい。

 読書・音楽鑑賞の面では、まだ読んでない・聴いていない、「優れた作品/有名な作品」は一応目を通しておきたいという希望はある。
 若い頃に興味があったジョルジュ・バタイユや、ロラン・バルト辺りの著作は、そろそろもう、いいかなという気がしている。まだ興味が持続しているのは、メルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース、西田幾多郎くらいか。西洋哲学史の枢要をなすカント、ヘーゲルもいまいちど、まとめて読み返したいと思っている。

 音楽では、20世紀後半以降の現代音楽でまだ聞き込んでいないものが相当あるので、ほしいCDが途絶えることはない。最近のお気に入りは、たとえばソラブジの超絶技巧練習曲(Transcendental Studies 44-62 )、クセナキスの弦楽四重奏のための作品(Xenakis: Complete String Quartets )、渋いところでエリオット・カーターのピアノ協奏曲(Elliott Carter: Piano Concerto )やピアノ曲集(カーター:ピアノ作品全集(ウルスラ・オッペンス) )。フィニスィーのピアノ曲(Finnissy:Etched Bright With Su )もなかなか面白かった。
 エレクトロニカでは、やはりオウテカ以上のものを知らない。ボリュームもある「EPS 1991-2002 」は、何度も聴き返して飽きない。
 あと、ハウス、洋楽やJ-POPなども、折に触れ聞き続けるだろう。若い頃よく聴いたジャズはなぜか、最近は聴きたいと思わない。

 ボーカロイドの入ったPOPソングやエレクトロニック系の曲などもここ2、3年作って来たけれども、自分はやはり現代音楽的な感覚に根ざしているのが本来の姿で、POPな曲を作るときは何らかの「技法の習得のためにやっている」という目的意識がある。
 聴衆から離れすぎた現代「前衛」音楽に対しては、記憶に残り口ずさみたくなるような旋律の取り入れなど、21世紀以降はもっとPOP化してもいいじゃないかと思っており、私は自分のなすべき領域として、両者が混合されたような、曖昧なポジションでの仕事を続けたい。この音楽は社会的にどうだとか歴史的にどうだとか、人びとからの受け止められ方はどうだとか、結局はどうでもいいことなので、自分自身の快楽を弄しながら、「死」のすぐ傍らで過ごしてゆくだけだ。
 
 このところ立て続けに書いている「ピアノのための23の前奏曲」は間もなく4曲目が完成しそうだが、この小品集、なんだか「ntによる23の遺言集」になりそうな気がする。
「残酷な小曲集(2007-2008)」の後半の数曲を書いたとき、私は「かくして私の思考の累積と、探究心に満ちた音楽創作の冒険は、結実した。これはゴールが見えた、ということだ。」と記したが、それは、技術の向上や洗練などを別にすれば、今後作曲しうる音楽の方向性、あるいは基本となる技法・構築法は完成してしまい、ある意味ではもはや未来が決定したという宣言であった。
「23の前奏曲」は、この予告への回答となっていると思う。宣言された基礎技法・音楽的感性に基づいた、さらに「進行した形」での作品形成。そして「インヴェンション第1集(2005-2007)」にみられたような、曲集としてのバラエティーもここで再度図られている。「インヴェンション」で試みたポピュラーミュージックとの融合も、新しい23曲に入ってくることと思う。
 この23の小モニュメントは、私の死を飾る墓標となってくれるだろうか?
 ただし、ピアノの音ばかりいじっているとさすがに飽きるというか、疲れてくるので、弦楽器などを用いた室内楽作品や、エレクトロニクスを駆使したエレクトロニカ系の音楽(私はオーケストラが書けないので、その代わりにエレクトロニクスを使うのだ)も、ときおり書いていきたいと思っている。死ぬまでに。


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