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人はどこから無調を感じるか

textes/notes/音楽

written 2011/1/27


先日公開した「CPU」というボーカロイドを使った曲だが、「サビはポップだが、サビ以外の部分は無調で、カオス」という感想を2人の方からいただいて、かなり驚いた。サビ前のAメロ・Bメロの部分は、私の中では全然「無調」ではないからだ。確かに、ややアグレッシブな和音付けはしているものの、いつもより控えめであって、この部分を無調と感じる人がいるというのは、もの凄い「感覚の違い」なのではないかと思った。
試しにTwitter上で、この部分を無調と感じますかと呼びかけてみたところ、残念ながら一人しか返答がなかったものの、「あまり無調とは感じず、POPだと思った」というご感想をいただいた。この方は現代音楽もふだん聴いている方と思われる。

私の考察では、歌モノの場合、ボーカルのメロディーラインがある程度スケール(音階・旋法)に則って動いているならば、カクテルパーティー効果(まわりにいくら雑音があっても、注意の対象となっている目の前の人の話を聞き取ることができる)によって、多少バックサウンドが無調がかっても、調性的に聞こえる・・・はずだった。

まず、音源を聴いてみて下さい。問題の箇所(Aメロ・Bメロ)はMP3で0:27あたりからです。

http://www.signes.jp/musique/Prism/CPU.mp3

具体的に見ていくと、前奏部分を省いてAメロ「ケーブル伝わる信号・・・」の辺りは、メロディーのスケールはBマイナー(あるいはEドリアン)。ここは3/4→4/4→3/4→2/4という変拍子だが、実はメロディーラインだけなら4/4×3小節として聞こえるかもしれない。そこで、ベース領域で鳴っている音を、小節ごとにダダダと鳴らすことで、小節の変わり目を強調した。スケールではCにシャープがつくのにベースにナチュラルCが入るが、この和音はGないしEマイナーの代理和音である。
ただしBメロに突入した瞬間、メロディーはBbメジャー/Gマイナーに転調する。スケールががらっと変わる(共通音が少ない)ので、もしかしたら、ここが「無調」と感じるのだろうか? 1小節前からの和音の動きで明確な属和音(F7)→主和音(Bb)の転調があるので、大丈夫だろうと思ったのだが・・・。
Bメロのあいだは拍子がやや不規則な動きをするし、和声的にはやや不安定か? 私の感覚では、調性音楽をさほど崩していないつもりだったが、どうだろう。

サビは属和音のアウフタクト→フェイント下属和音(B)で嬰ヘ長調(F#メジャー)に突入、安定した4つ打ちの4拍子。ここが調性的であることに異論のある人はいなかったらしい。
もっとも、途中から一時的転調でGメジャーまで行くが、最後にF#に戻る。

Aメロ・Bメロが無調に聞こえる、というのは、もしかしたら主和音に落ち着かないからではないだろうか? それは確かにその通りだ。属(七)和音を経由して、必ず主和音に帰着するというのが、無調でない音楽の鉄則だとするなら、この曲もまた、規範からの逸脱であるかもしれない。
しかし、ドビュッシー以後、属和音からの主和音への無邪気な帰還は、無骨すぎないか? というか、20世紀音楽のあれほどの動乱を経たこんにち、いまだに主和音の絶対的支配=安定性=予定調和に素朴に依存するのは、私にはともすれば偽善にさえ思えるのだ。「主和音」にいつまでも、権力者づらさせておきたくない。だから私は、みんなが大好きな久石譲とか坂本龍一を、第一のものとは考えないのである。
アドルノをもじって、
「アウシュヴィッツ以後、主和音への服従は野蛮である」
と言えないだろうか?

ところで、調性感覚というものは、単に習慣により形成されるものである。
西洋音楽で育てられてきたからこそ、調性/無調などという2分法にとらわれているのであり、西洋からの影響を受けなかった文化圏の音楽には、調性はもちろん、半音階が存在しないから無調もまた、存在しない。あるのは「スケール」だけである(スケールについての理論すら、ほとんどの場合存在しないだろう。つまりスケールという概念は一般的に存在するわけではない)。

さて今回の私の音楽については、どうやらふたとおりの反応にわかれるのが面白かった。「かなりポップな、娯楽的な曲」という人と、「サビ以外は無調でカオスで、ポップでない」という人と。
前者の人たちはたぶん、ふだんから現代音楽など無調の音楽に馴染んでいる人で、後者はきっと、そういうものに日常触れておらず、19世紀までの調性音楽や、その亜流としての大衆音楽しかほとんど聞いていないのではないだろうか。
私自身も、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を高校生の頃初めて聞いたときには、すごくドロドロしているものに出会ったと感じ戦慄したが、この曲に限らずメシアンは、「現代音楽」のなかでは極めて平明でとっつきやすい、いわばPOPな作風だと、今では感じている。
何が無調で何がそうでもないか、それを決定するのもおそらく、単なる(音楽聴取上の)「習慣」にすぎない。

「三和音」は西洋音楽史の中でも近世(ルネサンス)になってやっと出てきたものだし、ある時代には不協和と感じられた音程が別の時代には協和音と認められるという例は、周知の事実だ。時代が変われば禁則も変わる。文化的な規則すなわち「権力」とは、おおむね、その時代のその文化圏においてしか有効なものではない。それは人々や表象の「あいだ」=関係性において成立するものだから。
人間は習慣によって形成された感覚によって様々なものごとを判断するけれども、このように、たいていのものは相対的であるにすぎない。そういう枠=パースペクティヴ=パラダイムの中にしばられて終わってしまうのは、音楽にとっても、人間的生命それ自体にとっても、本意ではないだろう。
そして、メシアンやストラヴィンスキーのある曲をポップであると感じる感性が可能であるなら、常識的な調性音楽の語法に縛られない「POP」の存在は可能なのである。そして、現在の感覚からは想像も出来ないような、あたらしい調性感覚が、未来には到来する可能性もあるだずだ。100年、200年後の音楽がどうなっているのかは、誰も予想できないのだから。
自らが属するものの限界を超えて前進を求めること。クリエイターの唯一の共通倫理は、これではないのだろうか。


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