冗長性の音楽
textes/思考/音楽
written 2011/1/24
先日も書いたように大学生時代、ピアノの練習にずいぶん時間をかけたが、J.S.バッハ以外にはバルトークのミクロコスモスをちょこっと弾いたくらいだった。平均律クラヴィーア曲集などのフーガは、その書法が稠密であるため、練習するあいだにもさまざまな音の発見があって、その都度興味をかきたてられる。それが快感だった。
逆に、みんなが大好きなショパンやシューマンの楽譜は、全然弾く気にならなかった。ちょっと楽譜を開いて弾いてみても、フーガ的な密度がないその「譜面」は「スカスカ」に隙間だらけだと感じ、ただちに楽譜を放り出してしまった。ドビュッシーでさえ、同様の「スカスカぶり」を感じた。おんなじ和音がただ続いていたり、とりわけ左手が退屈だったり。要するに、「弾いてもおもしろくない」。
これは私と、クラシックの楽譜(=エクリチュール)との、倒錯した関係と言えるのではないだろうか。
ショパンやドビュッシーの楽譜を放棄したその瞬間から、たしかに、私は「みんな」とは違う方向を向いてしまっていた。
たぶん、この「歪み」は、私の表層的人格ないし生活習慣・対人関係の様式とむすびついている。
私は子どもの頃から、かなり「無口」だ。
他人に対しながながとしゃべることがとても苦手で、人に何か聞かれても、できるだけ短く返答し、用件はすぐに済ませて次のステップに向かいたがる。おしゃべりな人を見ると、生理的嫌悪感と同時に、「よくそんなに喋ることができるなあ」とひそかに感心もする。
話し言葉と逆に、「書き言葉」はむしろ得意で、私は文章ならどんどん書ける。これはある種の反動であり、ふだん人前でながながと話せない恨み(ルサンチマン)の爆発、世間への復讐ないし償いであるかもしれない。
できるだけ簡潔に、短い時間のなかに言葉を凝縮させること。
同じ文意を繰り返すことのムダを嫌い、瞬間的にある程度以上の質量を放ち、次の瞬間は別の文意へと向けて身をかわそうとすること。
「無口な人間」の作法が、まさにそのまま、私の音楽に反映されていると思う。
特に対位法を用いることで、一気にテクスチュアを濃密にし、一度に複数のことをやってのけたりする。変なたとえだが、フーガ的書法なら、ブルックナー20小節分の内容を1小節で済ませられる。そうして、短時間で言いたいことを済ませてしまうと、さっさと次の話題に進んでいこうとする。フレーズばかりか絶え間なく拍子/リズムも変更し、4小節以内にはもう別の調性に転調してしまい、どんどん遠い調にぶっとんでいく。
実はこのやり方は、文章作法(文学)や絵画の分野では、むしろ規範的なあり方と言えるだろう。が、「音楽的」ではないかもしれない。
というのは、「凝縮しつつ、ある箇所であるものを濃密にえがき、次の地点でまた別の語りに入る」という態様は、むしろ静止的な・空間的配置の作法にほかならないからだ。
文学と絵画に「時間」の要素が全くないわけではないが、基本的にそれらは空間的に配置されたものを追いかける受け手の視点の側に「動き」や「時間」が生じるということだ。ディテールまで濃密に書き込まれたエクリチュールは、受け手の主体の欲求次第で何分でもそこにとどまることができる。主体は自由に空間の内部を巡り歩くことができる。一見、普通に読めば一方向にしか時間が流れないように見える「小説」でさえ、「時間」は一様に流れているのではなく、濃淡をともなう。
ところが音楽で流れる「時間」は「時計」的なもの(いわば「強制スクロール」的なもの)であり、主体(受け手)が集中していようがぼんやりしていようが、おかまいなしに流れていく。私の音楽は秒単位でどんどん変容していく形なので、ほとんどの聴き手は置いていかれ、なにやらよくわからないままに曲が終わってしまうのだろう。
ここに、私の音楽の重大な問題が存在する。
私の空間配置的/文学的/絵画的な音楽書法は、自らバッハのフーガを弾いた経験に由来するものだが、実はバッハの音楽そのものは、かならずしもそうではない。受難曲、カンタータ、組曲などを聴けばわかるように、本当はバッハにも「音楽」ならではの「冗長性」が存在している。
メッセージをいかに伝えるか(作品に籠めるか)というとき、効率化するためには、冗長性(おなじメッセージの繰り返しなどの余分なもの)を排除しなければならない。私の音楽は、この意味ではメッセージ効率を重視していると言える。無口な人間の、行動様式上の工夫である。
だがしかし、どうやら、音楽における「冗長性」は、「非効率」なのではない。
ある音型の執拗な繰り返し、おなじ和音の維持、定型リズムの持続、私が嫌ってきたこれら要素は、たしかに「メッセージ」の伝達方法としては冗長だが、そもそも音楽は「メッセージの伝達」をめざしているわけではなく、多くの人びとは、むしろ冗長性がもたらす情緒の醸成や、気分の持続を求めているのである。音楽では、持続されるものの「時間的長さ」が、聞き手の心理におそらく重要な影響を与えている。
だからブルックナーなどが好まれる。
おなじフレーズを長々と繰り返し、単調なクレッシェンドを延々とやって気分を盛り上げる手法など、クラシック作曲家でもドビュッシーやブーレーズからは酷評されており、私も嫌いだが、一般的な聴衆はこういうのを求めているのだ。
時代はうつって、ハウス/クラブ/テクノ系の音楽は、ミニマルと銘打っていない場合でも、極めて単調なリズムの反復が土台として必ず存在する。それが「気持ちよさ」「陶酔」をもたらすのだと、この領域のクリエイターもリスナーも知っている。(エレクトロニカでは、適宜脱線するような音色やリズムが導入されるが、それらは決して全体の単調さを破壊はしない。)
また、これらの系統の音楽では、クラシカルな楽器演奏とは対極にあるような無機質性(ベロシティ一定、テンポが一切揺れないベタ打ち、機械的なだけの連続性etc.)を前面に出すことで、反復=機械=死のイメージを「クールさ」としてファッション化する。(「エレクトロニカと死」参照)
DJのプレイでは、延々とダンスミュージックが接続され流れてゆくが、その恍惚が最高潮に達するのは、ほんとうは曲の変わり目の瞬間である。しかし、それは数分の間隔を置いて現れるのであり、基本的には似たようなテンポ・リズムが続くのだから、全体としてはかなり長大な「持続」であり、すさまじい冗長性にほかならない。この冗長さ、強いて言えばその全体が一個のメッセージとして、リスナーに受け止められているにちがいない。
つまり、一般的なリスナーが音楽に求めているのは、冗長性からくる「一定の気分」の範囲内におさまるような長い持続であり、そのような形で「時間を消費する」ひとときが、現代人にとっての音楽の効用なのだ。つまり、瞬間的にとめどもなく移り変わってゆくその変異の在り方ではなく、一定以上の「時間」を情緒的に分節化し、固定してくれる音楽の「効用」が求められている。
こうして、「受ける音楽」の構図が浮かび上がってくるが、おおまかに言えば、これは「現代音楽」と一般的な(大衆向けの)音楽との対立にも結びつくだろう。
しかし私も、そろそろ、「持続する時間構造」としての音楽の形態を、もっと真剣に探究するべきではないだろうか。
モーツァルトも、マンハイム楽派と出逢い、「冗長な表現」を吸収した時期がある(「パリ」交響曲のころ)。ある程度の冗長な表現法を手中にすることによって、後期の「ほどほどに長い」音楽様式に到達できたのだと言える。モーツァルトはいったん「冗長さ」を取り込むことで、まさに「中庸」な、「ほどほど」な長さで自分の音楽を再構築したようだ。
生きられる時間としての音楽・・・。
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