POPソング「CPU」完成
textes/notes/音楽
written 2011/1/22
一転してPOPなボカロソングを作った。「CPU」。狙いは、重さのない、表層的エンターテイメントとしての音楽。
音源ファイル:http://www.signes.jp/musique/Prism/CPU.mp3
歌詞:http://www.signes.jp/musique/Prism/CPU.txt
掲載ページ:http://www.signes.jp/musique/index.php?id=689
しかし作り始めた最初の頃はしきりに、ミュライユとかリゲティ、シュトックハウゼンなどの現代音楽を聴いていたためか、どうも調子が出ず、旋律やリズムを崩しすぎて本当に現代音楽っぽくなってしまい、POPと芸術/現代音楽のはざまでしばし悩んだ。
そこでPOPめのエレクトロ/エレクトロニカばかり意識的に聴くように心がけ、車の中では特に今回のターゲットである中田ヤスタカ氏の音楽(perfume、capsule)を聴くようにした。
ちょっと現代音楽的要素でひねって変態っぽいPOPにしてやろうというのが最初の企画だったが、変拍子はともかく、(特に旋律面で)無調的要素を入れてしまうと完全に「POPではなくなる」ため、制作中いろいろ考えながら、結局のところ、サビの4拍子・4つ打ちバスドラ、保守的な和声進行が象徴するような、「ふつうのPOP」に近い曲になった。
それでも何となく、ノリがいまいち、と思われるとしたら、たぶん私のメロディーセンスが古いせいだろう。今回特にシンコペーションが少なすぎたかなと思う。
なお、歌詞は当初あまり考えておらず、どうでもいいや的な感じであったが、最終的には、まあ、ボードリヤールが「システム」などと呼んでいるような、社会の構造体を暗示する形となった。しかし、具体的に何のことを言っているのかは一切触れていないためかなり多義的で、どうにでも解釈できる歌詞だと思う。私はそもそも、J-POPの歌詞などぜんぜん重視していないので、あくまで音楽優先なのである。たぶん、本当はそれではいけないのだろうけれど。
大学時代にピアノで弾きまくっていたのはバッハの平均律ばかり、それから20世紀モダニズムや現代音楽などをずっとCDで聴いてきた私にはやはり、複雑性への志向があって、20歳くらいの頃には人並みに生意気で、単純で凡庸なPOPとかライトクラシック、音楽的には素朴きわまりないパンクやロックなども含めて、それらをあざ笑うかのようなスタンスも持っていたかもしれない。
そういった若さから来る頑なさは、当然、歳と共に薄れてくる。
いまやJ-POPもふつうに楽しんだりするし(女性シンガーに限る)、あいかわらず複雑な音楽への愛情を持ちながらも、もっと広く、さまざまな音楽を聴いて楽しむことができる。
私たちがただちに記憶し、口ずさんだりするのは、やはりPOPソングのメロディーであって、クセナキスやシュトックハウゼンではない。むずかしい理論や思想などなくても、構造的に凡庸ではあっても、「キャッチー」でありさえすれば、音楽はそれ自体異様なまでの「力」を発揮しうる。
むしろ、J-POPのような世界に「斬新な・深い思想が込められた歌詞」や「音楽的な高度さ」を求める方が間違っているのであり、共同主観的に表象された「社会」の無意識な装置が生産してゆく表層的文化現象を、個人=芸術家による「英雄的な」仕事としての「作品」とはまるで異なる次元の複合体として受け止めることから、始めるべきなのだ。
POPとは何か、という点についてはこれまでも私なりにいろいろ考えてきたけれども、今回再び「POP」と「非POP」との境界の、大きな断絶について、作りながらまざまざと実感した。
ある程度のレベルのPOPソングを作ることはさして難しくない。既存の素材を組み合わせ、限定された語法の中で、匿名的な作品を構築してゆく。
この限定は、創作者を縛り付けると言うよりもむしろ、創作者およびその手中の語法自らがそう望んでいるかのように見えなければならない。
POPソングの語法は、ソシュールが言語について語ったことと非常に似ている。
POPミュージックもまた、「昨日聴かれたのと同じように聴かれなければならない」。だから「昨日作られたのと同じように作られなければならない」。「昨日とおなじようにあること」。これが、共同主観的実在としての「大衆文化」を支えている。
POPとは「大衆」的な間主観性の化学の場なのである。
時代の流れとともに、POPソングのサウンドも他の新しいジャンルの要素を取り入れながら、ほんの少しずつ移り変わってゆくのだが、もちろん、それは緩慢な変化であって、作為的なものであってはならない。この点も「国語」自体の極めてゆるやかな変化の仕方とよく似ている。
必ず変化は緩慢でなければならないというこの制約のゆえに、POPミュージックは先鋭的な音楽シーンよりかなり後ろの方を歩いているように見えるだろう。
やや現代音楽的、というか20世紀前半のモダニズム的な音が、たまにビョークなどの曲にも顔を出すようになってきたが、こうした「新しい要素の取り入れ」は今後もごく緩やかに進んでいくだろう。ジョン・ケージのプリペアド・ピアノのための音楽のような響きも、メジャーなPOPソングとは言えないがエレクトロニカ・アンビエント等のジャンルには現れて来ており、やがてはPOPソングにも浸食していくに違いない。
だが今のところ、レディー・ガガなど現在のメインストリームの音楽を聴いてみれば、新しい要素が入ってくるのはまだまだ難しいのかなというもどかしさを感じる。
要するにPOP音楽の受け手たちは相当に保守的で時代の刺激にも鈍感だ、と考えておいたほうがいい。しかしこれはあくまでもイメージとしての「聴き手」であって、現実の聴き手の大半が実際にそうであるかどうかはわからない。
経済や政治の動向が、統計化された大衆によって影響されるのとおなじで、POP文化もまた統計化された大衆の緩やかな変化とともに歩む。そしてもちろんこの統計化された大衆とは、現実の個々の人間とは関係が無く(それは個々の人間の「総和」では決してない)、果てしなく愚かで鈍感かつ利己的な、表象/ゲシュタルトとしての「人間」なのだ。
「ふつうのPOP」の枠組みを作るのは前述のように簡単で、作曲家としての能力への負担は、クラシック/現代音楽的な曲を作るのにくらべればずっと軽くてすむ。その分、クリエイターの関心は、音源としての作品の、パッケージ的な側面へと向けられる。つまりアレンジからエフェクト、ミックス、マスタリング等における技術の方に手腕がふるわれる。「POPでなければならない」制約のもとでは、そうならざるをえないのだ。POP言語=ラングの内部で有効な個々の発話=パロールの、共同主観的価値意識のもとで技術を磨くことが求められているのであって、言語体系そのものを問い直すことはタブーですらあるだろう。
クラシック/現代音楽で最大の注意が向けられる作品の「エクリチュール性」は、かくしてPOPでは軽視され、かわりに音楽メディア(CD、PVや、mp3などの音源リソース)の「パッケージ性」が重視される。
今回の私の曲についての話に戻るが、それにしても自分の好みとしては、もうちょっと先鋭的で未来的な、「エクスペリメンタルPOP」をめざしてみてもよかったのではないかと思う。しかしどこまで行けば「POPではなくなってしまうのか」という問題はなかなかにやっかいで、そう簡単に一気には突き進むことはできないようだ。
エレクトロなジャンルではもっと「現代音楽」に近づけることが容易なので(ただしいつも「ビート」の問題に悩まされる)、その辺を再度往復しつつ、試作を重ねていくしかないだろう。
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