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モーツァルト 意識以前の音楽

textes/notes/音楽

written 2010/12/28


こないだモーツァルトのピアノコンチェルトを久々に聴いた。
最近は滅多に聴かないが、私は高校時代に熱烈なモーツァルティアンで、それ以後、音楽上の興味があちこちに移っても、モーツァルトの音楽という存在の特別さを疑ったことはなかった。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの音楽が特別なのは、単に技巧が凄いとか革新的とか、そういうことにあるのではない。もっと深い、音楽そのものの存在論的構造に由来するのではないか。その構造の神秘性が、モーツァルトをバッハともハイドンともベートーヴェンとも隔てているような気がする。

モーツァルト的な音楽の感触は、「理性」という近代西欧の中心概念とは少しちがう。それは単に「前意識」あるいは「無意識」に近いように思う。だからベートーヴェンの「意志」とはまるで違うし、ロマン派の「情感」や「物語」とは、たまに接触しはしても、決してそこに留まらないという意味で、やはり隔絶している。
もちろんモーツァルトの音楽は「意識の流れ」のようなものではなく、ハイドンのような、時代の形式感覚をいちはやく取り込んでおり、その点はまさに「古典主義時代」にふさわしい。たまに激情にちかいところまで音楽が過熱しても、突然、ケロっとしてもとの主題部に戻ったりする。弦楽五重奏曲ト短調の末尾など、本当にあっけらかんとはぐらかされたような終わり方で、ショッキングだ。
時代によって規定された「形式」=理性/意識的なものと、創造のさなかにある心的なもの=前/無意識的なものとのあいだで、しばしばモーツァルトの音楽は引き裂かれる。

しかし、最後のレクイエム Requiem K.626において、部分的には、ついに古典的形式から逸脱する。もう、歌詞以外に音楽を縛るものがない。そこへ深い場所から音楽があふれ、広がってゆくが、これが無二の響きを成す。
「Confutatis」の末尾の、まるで万物が溶解していくかのような「Voca me・・・」のくだりなど、こんな音楽は20世紀までは存在しないだろう。こんな極限的イメージは、「近代」にはありえなかった。(ピアノ協奏曲23番イ長調第2楽章の末尾も、この種の極限イメージに接近している。)

モーツァルトはよく知られるように、細部にまでわたる一切を頭の中だけで完全に作曲しており、楽譜を書くのは、単にそれを「写す」作業にすぎなかった。彼の頭の中に鳴り響いていた音楽、それはたぶん、「理性」や「意識」によって「操作」されたものではなかったのではないか。彼は心象としての音楽とそのまま対峙し、それとともに生き、すなわち、理性や意識が活動をし始めるより前の段階で、半ば無意識的な段階で、音楽という営みを営んだのではなかったか。そこから、あのどこまでもナチュラルで、透明で、形式的に端正であると同時に、心的なリアリティに富んだ情緒の推移でもあるような、希有な音楽が生まれたのではないだろうか。
音楽を何らかの「意図」をあらわす「言語」であるかのように操作し、「意味」の構造としての音楽の記述を始めたベートーヴェンとは、この点まるで反対だ。

高校時代にモーツァルトに耽溺した私の感性は、ほとんどそれを聴かなくなった最近でも、いわばひとつの土台として生きているに違いない。
もちろん私の作る楽曲はヘタレで小汚く、天才とも秀才とも比較の対象にはならないシロモノだが、たぶん私の音楽の構造は、モーツァルト的な「無意識感覚」に近いのではないかと思う。
特に身勝手な和声や非和声、気まぐれな進行や歪んだ形式感で固めた最近の作品は、「意識」や「理性(意図)」の向こう側を反映させようという、それ自体無意識的な衝動の痕跡を示しているかもしれない。 非才なうえに不勉強な、三流以下のど素人のがらくたではあっても、この音楽は結局「モーツァルト的なるもの」の水面へと下ってゆく傾向を持つのではないだろうか。
そこは「音楽上の私」が生まれだした母胎だ。


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