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何にも似てない

textes/notes/雑記

written 2010/11/7


私の音楽は、他のどの音楽とも似てないと思う。
最新作「音楽のめざめ」にしても、あちこちで「現代音楽」と銘打って発表したものの、20世紀後半以降の「現代音楽」のいかなる楽曲ともどこか、違っている。それは私が一切のアカデミックな地盤を持たず、完全に独学で音楽をやってきたことに起因するだろう。
「音楽のめざめ」はヤニス・クセナキスの音楽を再認識し、深く惑溺したところから出てきた作品だが、クセナキスの音楽とは全然ちがう。

「現代音楽」という括りに入れるには、私の音楽はエンターテイメント的要素が強すぎる。しかし、一般的なエンターテイメントにはありえないようなひねくれ方も示している。
私が最近作っている音楽が帰属するジャンルがなんなのか、私にはわからない。というより、どこにも属することができず、似たような音楽をやっている人に出会うこともできず、仲間もなく最適な音楽活動の場所もなく、強い孤立感をぬぐえない。
「俺の音楽は最高にオリジナルだ」などとイキがる気持ちは持てない。たださびしく、自分がどこにいるのか理解できず強烈な不安にさいなまれるだけだ。

誰もが、他人の既存の作品を真似することから始める。
作曲歴最初期に私が真似したのはバッハの他、モーツァルト、バルトーク、プロコフィエフ、ラヴェル、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットなどだったと思う。これらの音楽は青春期の私に強い磁力を放ったから、私の音楽的感性の根幹の部分におおきな影響を残していると思う。フュージョン的な感性は最近の音楽にも意図せず表れているようだ。
プーランク、フォーレ、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、武満徹、シマノフスキ、スクリャービンなどは後から本格的に聴くようになったが、歳とともに、他者から受ける影響は弱くなっていく。
ここ数年のあいだにはまり、聴きまくるようになったジョン・ケージ、ヴォルフガング・リーム、ヤニス・クセナキス、ビル・ラズウェル、オウテカなどは、特色を取り入れてみよう、とは思っても、ごく部分的な・わずかな影響としてしか、私の実作に反映されていないような気がする。
たぶん30代半ばくらいまでに、なんとなく「ntの音楽スタイル」なるものが確立してしまい、以後、そこからあまり遠くへは行けなくなってしまっているのではないかと思う。
ほんとうは、もっともっと遠くへ行きたかったのだが、人には限界があることを知るべきなのだろうか。

とりわけ「和声感覚」は、私が直感的に育ててきたもので、これは生理的レベルのものだから、変えろと言われてもそうそうすぐには変わらない。
対位法的なものや、「対位法の精神」を「アカデミックな対位法とは別のかたちで」体現しようとした流儀、通常の構造を破壊し、わざとずっこけたり尻切れトンボにしたり、ひねくれた展開を探索し、どんどん私は人とは違う方向へ勝手に進んでいったのである。
しかももう、まるごとやり直しがきく歳ではない。

アカデミックな基礎を通過していない私の音楽は、クラシック、現代音楽の専門家には到底支持されないだろうし、ふつうのエンターテイメント音楽を楽しみたい人々には敬遠されることになる。
それでも、私のこの妙な音楽は、少数の方々に「おもしろい」と言ってもらえるようで、その点が唯一の救いだ。「おもしろい」けれども「最高」ではぜんぜんないんだろうなあとは思うが、「どこにも属さない、ごちゃまぜカオスの音楽」としては、今以上の評価をのぞむことは無理だろう。
しかし、なんだかんだ言っても、人の評価をとりに走るより、私はこの先も独自路線でずっと行くしかないのかなという諦めは、ある。

40歳を過ぎた私の音楽は、その骨格はすでにある意味「完成」してしまっており、あとはもう、多少ひとの音楽から何かを取り入れたとしても、根本的な・劇的な変化は遂げそうにない。むしろ統合や洗練といった方向に向かうことしかできないのではないだろうか。なんとなく最近は、自分の音楽スタイルがいよいよ固まってきたなという思いが強い。
若くないという事実からは逃れようもないのだ。


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