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意味を超える「音」 - 音楽現象学の試み

textes/思考

written 2010/10/8


たまに私の音楽について「何を言いたいんだかわからない」といった感想をもらうことがある。
何を言いたいって・・・私としては別に何も言いたいことはない。そもそも何か言いたいなら言葉を使うべきであって、わざわざ絵画とか音楽にそんな欲求を発散しなくてもいいではないか。
芸術は何らかのメッセージ・自己主張「でなければならない」と考える一群の人々がいる。「自己表現」という、教科書にも載っているわけのわからない言葉も、このグループによって頻用されるだろう。
私自身は、作品をコミュニケーションの道具だと考えたことはない。結果としてコミュニケーションが生まれることもあれば、生まれないこともある。作品は必ずしも「メッセージ」や「表現」ではなく、その根本的な成立条件は、ただ「構築すること」である。
J.S.バッハの音楽には豊かな情感があり(たぐいまれな和声の駆使)、各曲はそれぞれに個性も持っているが、バッハが「何かを言いたくて」曲を書いたとはとても考えられない(受難曲、カンタータにはテキストの文意に沿った標題音楽的描写もあるが)。「フーガの技法」みたいな作品は、ただ純粋に(フーガ技法という音楽思考の十全な展開として)「構築されて」、在る。

しかし、音楽が受け取られるその場所に「意味作用」が存在することを私は否定しない。

音楽(音、リズムなど)自体に「意味」があるわけではないが(もちろん歌詞は除く)、聴き手=主体が「音楽」と出会い、結びつくその場所に、「意味」が生成する。この生じたものはどちらかというと主体の側(主観)に属しているが、私という「個体」の内部にあるのではないから、むしろ対象との「あいだ」にあると言った方がいい。
ところで「対象」は単独であるときには意味を持ち得ない。幾つもの「対象」が存在し、それぞれが互いに関係性を持つように見えるとき、その各対象間の「関係」を私=主体が認識し、そこに関係性を結んだ際に、「意味」が生じるのである。これは、ひとつの単語じたいが意味を持ちうるのではなく、他の語や、背景となる言語体系(ランガージュ)との関係性において、その単語の「意味」が生じうるということとおなじだ。この事情を「差異が意味を生成する」と言ってもいいし、「意味=主観は、『あいだ』に生じる」と言ってもいいだろう。

音楽に戻ると、一個の音が何らかの「意味」を持つことはほとんどない。あるとしたら、その音と「背景」とのあいだに何か関係性があるためだけだ。たとえばそれは主体の記憶だったりする。
楽曲に出てくる「鐘の音」一発が意味をもつとしたら、それは、聴き手が「鐘の音」というものを過去において記憶し、そこに何かのイメージ複合体ができあがっているためだ。一般的には教会とか、屋外の空気などが連想されるかもしれない。
シンバルの一撃も、金属的なものの衝突音、あるいは破壊される音の記憶をよみがえらせるという限りにおいて、単独で意味を持ちうる。
このように、どちらかというと明確な音高を持たない、ノイズ成分を多く含んだ単音のほうが、生活音に近いため、単独でも意味を持ちやすいかもしれない。それは無意識のうちに、ただちに聴き手の記憶機能にアクセスするからだ。

一方、より楽音的な音、たとえばフルートやピアノなどの楽器の、高すぎもせず低すぎもしない中程度の音一発を単独でとりだすと、そこにはほとんど明確な「意味」は感じられないはずだ。
西欧のクラシック楽器類は、音価配置による「芸術表現」のために最適化されてきたため、楽器の音色自体はあくまで「多義的」でなければならない。音色だけであまりにも意味表出をしてしまうと、音価配置の表現性の幅を狭めてしまうからだ。

さてこうして「楽音」として準備されたものを、いかなる配置技術によって意味化するのか。実は、科学はこのへんの事情をぜんぜん解明していない。こんにちの学問の水準としては驚くほどの未発達ぶりだ。このため、音楽に関しては、西欧人は長い時間をかけさまざまな経験をとおして、その語法(意味化技術)を発展させてきた。

楽音は、他の楽音との関係性を得ることによって初めて、意味を表示しうる意味素の単位となることができる。
それらが旋律や和音といったひとまとまりの群として配置され、さらにそれが集合したときにようやく、われわれの言う「音楽=意味あるもの」が出現する。従って意味素は、何重もの関係性によって成り立っている。しかも厳密には、意味が発生するのは、それらの音群同士の関係性に、聴き手=主体が関係する、その場所なのである。
音がいくら集まっても、ほんとうは意味を持つわけはないので、意味を「与えている」のはあくまでも聴き手にすぎない。
この意味を付与する意識の動きが、作り手と聴き手のあいだで同調されたとき、「共感」が成立する。
この「共感」は、単に両者がおなじ言語空間に住んでいるならば、そう難しいことではない。
「さあ、これは悲しい曲です。ほら、悲しいでしょう。旋律の動きも、バックに聞こえるサウンドも、悲しみに満ちている。こういうの聴くと過去の悲しい思い出とか蘇るでしょう。そうじゃないですか?私はそんな思いを伝えたくてこの曲つくりました♪」
などといった調子で曲を差し出すことは、作り手にとっては、実は素人が思っているようには難しくない。ある程度の技術を会得すれば小学生にだってできそうだし、こつさえつかめば昼寝しながらだってそこそこのものを作れるだろう。
この「簡単さ」は、共同体内部の既製の意味/言語体系を活用することによって得られる。モールス信号の表さえあれば、誰でもそれを使って文章表現ができるのと同じことだ。

ともあれ、こうしたテクノロジーを活用しながら、同一の文脈の中で作り手と聴き手は共犯関係を結び、「音楽は意味である」という幻想を発生させる。強いシンパシーを呼び起こす音楽の作者ほど、共同体の「内側」に閉じこもっていなければならず、内部において常套的・普遍的・凡庸であるような感性を必死でみがかなければならない。
文化とは、共同体の成員に幻想を共有させ、それぞれの意識を記号的手法で支配するために稼働している機能なのだから、共同幻想の強化は当然だ。このとき「意味」は、知による人間支配・世界支配のための重要な装置にほかならないだろう。

しかし私たちは、異文化との出会いに衝撃を受け、しばしばその出会い自体に「美」をも感じる。
私自身はインドの古典声楽やインドネシアのガムランなどがとりわけ好きだ。そこには西洋音楽とはまるで違う論理に基づいた「他者の思考」の存在が感じられるし、この他者との出会いをとおして「裸の音楽」の、意味をまとわない、むき出しの姿を垣間見ることも出来る。
もっとも、あんまり何度もCDを聴き返してしまうとこれも慣れっこになり新鮮さを失ってしまうので、そろそろ宇宙人の音楽を聴いてみたい頃合いだ。

モダニズム以降、20世紀のクラシック系音楽はこのような「裸の音楽」を探してきた。つまり同一の文化によって規定された、既製の文脈にもとづく意味作用から脱却した音楽だ。これは時代の潮流だった。

「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい」

ロートレアモン『マルドロールの歌』栗田勇訳 現代思潮社

のちにシュルレアリスムのスローガンにもなった、このひときわ有名なロートレアモンの詩句は、文脈を切断、飛躍させ、異質なものの組み合わせをセッティングすることで、衝撃的な美を実現する。
この手法をそのまま具象画に移したのがルネ・マグリットやサルバドール・ダリのようなシュルレアリスム絵画だが、この「既存の文脈を破壊するような、衝撃的な美」はピカソの絵にも感じられるし、ストラヴィンスキーの音楽でも体験できる。(有名なところで、初期作品「ペトルーシュカ」の、ハ長調と嬰ヘ長調が複調で出てくるところなどは、シュルレアリスムの手法に近い例。)
断絶、分離、非連続、異種のものの配合。あるいは特定の要素への過剰な執着。こういったスタイルで既存の言語体系から逸脱し、非-意味を指向することによって、文学なら言葉、絵画なら色や形態、音楽なら音の、「むき出しの姿」をとりだそうという純化作業への努力が、「20世紀芸術」全般の課題だった。

そして20世紀は(とりわけ戦争後)あちこちで「共同体」が解体し始めた時代だった。いつまでもぬくぬくと「内部」に留まっていることに、疑いの目が向けられるようになった。
そこで、共同体は分裂し、こんにちのポピュラーミュージックのように無数のジャンルに枝分かれすることで、共同体の言語構造の生き残りを図ったように思われる。
一方クラシック系の「現代音楽」は、それはそれでコミュティをもっているので、既製言語による常套語法などがないわけではない。いや、現在はむしろマンネリだらけなのかもしれない。
だが少数ながら、余計な要素を捨象し得た、めざましい「裸の音楽」も存在する。

たとえばヤニス・クセナキスの音楽は、その理論的背景(数学を使っていると言われているが)はよくわからないけれども、伝統的な西洋音楽の文脈を逸脱するような線や感覚があって、もちろん無調音楽ではあるが、ロマンティックな感性を引きずった無調音楽にありがちな重苦しさとか苦痛の感覚はなく、なにか異質さを秘めた非-意味の音楽、硬質で痙攣的な美を実現し得ているように思える。

一方、クラシック系以外で探してみると、やはりオウテカ Autechreがすごい。エレクトロニカではあるが、曲によっては「現代音楽」として非常に優れたものもある。
電子音は、それ自体が「もの珍しい音」だが、使い方次第でどのようなレベルの音楽にも活用できる。ただしエレクトロニックな音楽は、ただ単に音色が珍しいだけでヴェロシティが一定で平板だったり、音型や構造は普通のPOPだったりして、必ずしも「突き抜けた」音楽までは行けていない。
また、前述のようにノイズ成分の多い音色はそれ自体が意味を持ちやすく、これをある種ロマンティックな文法で活用すると、映画音楽の効果音みたいになってしまい、結局は新鮮さを失ってしまう。私の最近の数作品で、この現象を確認できるだろう。ノイズ系の音色は極端に表現主義的になるか、逆に冷徹なやり方で扱うか、とにかく中途半端な使い方は避けた方が、より新鮮な音楽的な効果をもたらすことができそうだ。
オウテカの音楽は、常識的な形からは逸脱したライン・音色・とりわけリズムを追究しながらも、音操作がとても冷静で何か乾いたような感触があり、なんとなくストラヴィンスキーに似ている。クールなようでいて、その乾きの上にたしかなエモーションのうねりがあるあたりも、似ている。感触的にクセナキスにも近いかもしれない。
ストラヴィンスキー/クセナキス/オウテカという、私好みのトライアングルを透視すると、背後に策士ジョン・ケージの姿も浮かんでくるが、これらの音楽は難しい理屈で考えるまでもなく、その音の連続の感受性が(音たちの群の関係性が)、なにか鋭い美として、バッハのフーガのような純粋さを取り戻したかのようなあたらしさが、人々に驚きを与えないだろうか?
むろん、「意味」を活用した共同体内部の音楽に魅力がないわけではまったくないし、楽しみのためにさまざまな層の音楽があるに越したことはないけれども、私がとりわけ惹かれるのはこのような、外部へと解き放ってくれそうな音楽なのである。

音楽にほんらい属さない要素を棄て、音そのものの美と活力を取り戻したとき、そこには「動くもの」としての生命の像が、新たな神話論理の姿を借りて立ち現れてこないだろうか?


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