従属する音楽と現代の神話
textes/notes/音楽
written 2010/9/8
私はほとんどテレビを見ないためネタが古くなってしまうが、クイズ番組「ヘキサゴン」から出てきた「羞恥心」等のような「しろうと音楽」がヒットする現象は、現在「音楽」という地平がどういう場所にひらかれているかという問題系を再度浮上させてくれた。
本来音楽に関してはど素人である有名人が、歌い、CDやDVDを販売し、これが大ヒットする。各種チャートの上位を占めてしまう。これでは、本当に歌がうまく、懸命に努力してきた本格派のシンガーはやりきれないだろう。
だから日本国民の音楽文化のレベルは低い、などと批判するまえに、「そのようなジャンル」として存在する音楽、それと社会との結びつきのありようを解読したほうがいい。
テレビなどを介してタレントが出現するとき、それは「人間存在そのもの」なのではなく、社会の言語空間のなかに位置づけられたイメージとして機能するエレメントである。
このイメージ機能は社会にとって極めて重要なものであるため、タレント自身がそこからあまりにも不用意に逸脱したり、(麻薬や泥酔による醜態などにより)あまりにも生身の姿を露出してしまうと、イメージを傷つけた罪によって、社会に罰せられる。
文学にも音楽にも本来無関係なタレントが、小説を出版したりCDを出したりするのは、このイメージ機能の展開である限りにおいて、許容・あるいは推奨される。逆に言えば出版業界も音楽業界も、このようなイメージ群を網状に広げるシステムを支持し、強化する器官にすぎない。
「羞恥心」など「ヘキサゴン」のメンバーは、むろん本格的な歌手ほど歌はうまくはないが、まあ、カラオケで拍手されるくらいのレベルはあるだろう(おおむね)。歌そのものの低レベルさを補うために、コンポジション、アレンジ、サウンドメイキング、ミキシングなどは、それなりに洗練されたテクノロジーがあてがわれる。そうしたテクノロジーの集合による方向性が「イメージ」にうまく合致したとき、ヒット曲が生まれる。ふつうにポピュラーミュージックとして「いいな」と思わせるような曲なんか、現在のコンポーザーはたやすくいくらでもつくることができるはずだ。
POP文化は成熟し、模倣に模倣を重ねた経験により、いまや、ハイクオリティな音楽テクノロジーをたくさんの作り手が共有できるようになった。
きっかけさえあればヒットしうる楽曲を書ける人間が、日本に数人どころか、おそらく何百人何千人、あるいはそれ以上に存在するのだろう。
しかし、現代経済においては、「いい楽曲」だけではビジネスは成功しない。なによりもシステム内の「イメージ」に奉仕するのでなければ、社会的価値をもち、流通しうる音楽とはいえない。
イメージなしの音楽が無用になってしまったということは、アマチュアの世界においてさえ、曲の発表に際して音源だけでなく「動画」をも求められている点からも確認できる。
また、シンガーやプレイヤーの能力レベルが第一の関心事でないからこそ、「声優」という、私には何がいいんだかよくわからない人たちの(専門外の)「歌」のためにわざわざCDが発売されたりする。
ビヨンセもレディ・ガガも、音楽的にはどうってことなかった。PVやライヴ映像、テレビ等への像としての「あらわれかた」こそが重要だったのだ。
J-POPでも、音楽そのものはさして重要ではない。どれもが似通っているが、それで全然かまわない。とにかく固有のイメージさえ表出できて、それが社会内の欲望にマッチできたら、それでいいのだ。
「イメージ中心主義」においては、結局、音楽は音楽「外」のものに従属していると言える。映画音楽はもともとそういうものだったが、今や、すべての音楽は(少なくともポピュラーミュージックにおいては)何かのイメージに従属することで社会化される。
社会を重層的に覆うこのようなイメージの集合体は、いわば現代の神話である。(ここでいう「神話」とは、レヴィ=ストロース『神話論理』の「神話」である。)
われわれの文明は幾層もの神話体系を有している。
わかりやすい例を探すなら、J-POPで頻繁に出現するようなシチュエーションや言い回し、情緒などは「神話」の発現の例なのである。
たとえば「会いたいけど会えない」といったシチュエーション・情感が、歌詞としてある程度以上のポピュラリティを得ているのなら、それは現在の社会の神話素のひとつだと言っていい。
「健康幻想」の権力化や、偏狭的なまでの「前向き」信仰、官僚や政治家など「反撃しない者」への、集団での激しい叩き。
すべてはわれわれの文化が無意識に保持している神話論理によって動かされている。
そうして、神話を支持し擁護する限りにおいて、「作品」も「商品」もやっと有効になるのだ。
おそらく古代社会も、特有の宗教や神話論理を持ち、その体系の一部としての儀式において音楽が活用されていたと思われるので、このような「従属するものとしての音楽」のあり方は、人類にとって当たり前なのかもしれない。
一方でJ.S.バッハの「フーガの技法」のようなものなど、高度に抽象的で純度の高い音楽こそが純粋音楽、「至高の芸術」であると、近代西洋の知はとらえてきたのだが、それは「芸術」なる価値を神話のひとつとして擁していた社会だから、可能であったにすぎないのかもしれない。
だから社会に受け入れられるためには、イメージに従属した音楽をつくる必要がある。
もともと音楽に「意味」なんてあるわけないのに、「この音楽、よく意味わかんないよ」と言われたとしたら、それは既定のイメージのいずれかにちゃんと結びついていないため、文化の背後にある神話体系に組み込めない、ということである。この神話体系は個人個人の脳の構造にしみこんでおり(コード)、あまりに合致しないものは異物として外部に放逐される。
さて私の音楽で言うと、先日の「Melancholie」「rm -r」「Endon」あたりは、比較的イメージが明確だったので、他の曲に比べ人に気に入ってもらえることが多かった。
あとは歌詞を「ふつう」にすれば、もっと一般に受け入れられる音楽を作ることが、私にも可能だろう。
しかし、いま私には、そんなつもりはまったくない。
私の視線は、神話論理の世界に生きる人のそれではなく、そこに垂直に食い入ろうとする人類学者の視線なのだ。だから批判し、人々から遠ざかり、毒をふりまき、なにかわけのわからないことを相変わらずやっている。
だが音楽をまだ解明しえていない。自然科学が音楽をさっぱり解明しようとしてくれない以上、現象学の方法で再度アプローチできないものか。
私はまたもや孤独のなかに閉じこもるだろう。
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