音楽のジャンルと死の増殖について
textes/notes/音楽
written 2010/9/6
ポピュラーミュージックの「ジャンル」なるものが、かくも複雑に増加の一途をたどってゆくのは何故か。と日頃疑問に思っていたが、最近になって「ジャンル」とは、(作り手の側から見ると)「物真似」を正当化するための言い訳なのではないかという気がしてきた。
才能あるミュージシャン(コンポーザー)が、何か目立った音楽を創ったとする。
すると、他のミュージシャンがそれを真似し始める。単なる物真似だと盗作になってしまうから、ちょっとずつ何かを加える。そうして集まった、何らかの特色を共有するグループを、「或る新しいジャンルの範疇」ということにしてしまう。そのジャンル名は業界の人間が名付けるのか、マスコミが名付けるのかはよくわからないが、いずれにしても、或る傾向を指し示すような言語記号が、ここに出現する。
このコトバはむろん、元となった最初の曲の形状を指すのではなく、「ひとつの記号のもとに集約しうる曲の要素一般」を指示している。
ところでリスナー側からすると、こうだ。
ある才能から生み出された特色ある音楽を気に入ったとする。同じ曲を何度も聴くとやがて飽きるので、おなじような性格をもった別の曲を聴きたくなる。そこで「おなじジャンル」というカテゴリでくくられた一群の楽曲があれば、そこを渉猟することができる。
或るミュージシャンのファンは、そのミュージシャンが突然スタイルを変えてしまうことを嫌う。ファンがミュージシャンに要求するのは、同一のものでありながら、細部や見かけがほんのちょっとずつ異なるが意味論的に同一であるような音楽の、限りない再生産である。
一個の快楽によって掻き立てられた欲望は、執拗におなじ味の快楽を求め続けるのだ。
かくして常に、先行の何かを模倣した複製品が生産されてゆく。そうしてその中で「ちょっと新しい味」が発見されると、そのたびに「ジャンル」は枝分かれしてゆくわけだ。
少なくともポピュラーミュージックの世界は、露骨な模倣品の生産/消費によって成り立っている。
そしてこれは音楽の世界に限らない。物質的な商業の世界ではさらに露骨だ。たとえばApple社からiPodやiPhoneやiPadが出て売れ始めると、他の企業がこぞって模倣品を出す。もはやオリジナルは重要ではない。利益を生むのはシミュラークラなのだ。
いっぽう、ほぼおなじものの際限のない再帰/反復を集団でねがう欲望は、人間的というよりむしろ欲望機械の名にふさわしいかもしれない。そのように馴らされている現代人。「人間」はとっくに、「消費社会」という内燃機関のなかに消失した。そして工場で・市場で、「欲望」はつぎつぎと生産されている。音楽の「魂」もまた。
ふたたび作り手の側について言うと、すべての芸術/技術の最初は、模倣から始まる」とはいえ、「いつまでも模倣しつづけている」というのが、今日的状況のように見える。それは「すべてやりつくされちゃったから、模倣以外にもう何もできない」なんてのはただの言い訳で、市場による「ジャンル」という囲い込みを前にして、去勢されてしまっているだけのようにも見える。
ポピュラーミュージックはいまや、境界線がさっぱりわからないくらい、「ジャンル」に満ち満ちている。欲望の地図/あるいは/カタログとしての「ジャンル」。
だがそれはまるで、ひとびとの欲望がその都度生産されて消えていった痕跡を示す、墓標の群れのようにも見える。決まり切ったシステムに組み込まれながらひたすら反復しつつ「あり続ける」ことは、思考停止であり、すでに「人間の死」であるからだ。
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