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豊穣な「現代」

textes/notes/音楽

written 2010/8/29


まえの楽曲(Melancholie)を公開してから1ヶ月以上経つ。
しばらくぼーっとしていた期間もあったが、新しい曲はとっくに作り始めている。が、身体上の疾患(お尻にデキモノができてまともに椅子に座れなくなった)のため、中断せざるを得なかった。
その間、読書に耽ってもいたが、久々に「現代音楽」のCDを3タイトル購入し、えらく気に入って、以来毎日聴いている(湯浅譲二「オーケストラル・シーン」、三善晃「交響四部作」、クセナキス「20th Century: Xenakis - Atrees / Nomos Alpha」)。 それでエレクトロニカは、家ではほとんど聴かなくなった。

うろ覚えで、出典は確かどれかのアルバムのライナーノーツなのだが、エイフェックス・ツインが自作をシュトックハウゼンに聴かせたところ、「リズムの反復」をけなされたそうだ。
シュトックハウゼンでなくても、クラシック陣営の音楽家なら誰でも、ポピュラーミュージックの退屈な「リズムの反復」を批判するだろう。 だが、執拗なリズム・パターンを全的に拒否する観点は、原始的な音楽のリズミカルな熱狂を無視することになってしまうかもしれない。そこにはやはり、(大衆の)音楽の原点ともいうべきものがある。
ただ、エイフェックス・ツインはセンスがすこぶるおもしろいから好きだけれど、あまりにも量産されているこんにちの安直な「ミニマル」系のDTMには、もう吐き気しか感じない。単に手抜きを正当化するためにミニマルという「ジャンル」を利用しているだけにしか思えないからだ。単純なループにはうんざりだ。単純ループの衝撃は、スティーヴ・ライヒ一人で十分ではないか? コストのかからないぞんざいな物真似はいいかげん、やめてくれ。

オウテカの場合はリズム自体を自在に変容していくのが非常に興味深く、これは立派な現代音楽だと考えている。しかし最新作「Move Of Ten」は存外につまらなくて、何となくウェイン・ショーターの70年代のフュージョン作品に似ているような気がした。私はショーターのフュージョンも好きだったけれども、今それをやるのは古すぎる。 エレクトロニカ系では、ボラ、リチャード・ディヴァイン、オヴァルなど、みんなそれぞれに面白いけれども、音色の探究だけにあまりにも精力を使い果たしてしまい、楽曲の構造などのさらにラジカルな要素にまで、気が回っていないのではないかと思う。
それはポピュラーミュージックの限界であろうか?

やはり純度の高い「芸術的な」音楽を求めるなら、クラシックに行かざるを得ない。
20世紀後半以降の「現代音楽」については、「こんなの音楽の自殺だ」というふうに全面拒否する人もいるけれども、そんなことはない。豊穣で興味深く、耽溺できる音楽世界だ。
ただし、「どの現代音楽を聴くか?」というのが重要なのだ。
どの世界でもそうだが、(古典として)生き残る作品と、そうでない(どうでもいい)作品があり、その見分けがつくのに数十年かかるのが普通である。どの時代でも無数の作品があるが、価値があるのはそのうちのほんの一握りにすぎない。
リアルタイムに「いま」の現代音楽群をながめていると、つまらない作品ばかりに思えてもしかたがないが、それは「いい作品」に出会えていないだけなのかもしれない。
ヨーロッパの最新の「前衛」などは相当にくだらない音楽が多い。私は「前衛」「実験音楽」の時代は終わったと思っているのだが、いまだにそれをやっている連中にはついていけない。そうではなく、さまざまな技法を試みながらも、「いい音楽を作ろう」としている人々もいて、その中のとりわけ才能ある者が、次代に残っていくだろう。
そろそろ20世紀後半の音楽も古典的な作品の評価が定まってきており、それらはもっと広く聴かれていいと思う。

それでもなお、「西洋(クラシック)音楽」がすべてではない、という気持ちは変わらない。
ポピュラーミュージックを見習って、素朴で大衆的な音楽の推進力としてのビートだとか、キャッチーで口ずさみたくなるようなメロディーとかも、どんどん活用していけばいいと思う。
それでいてジャンルにとらわれず、限界のところで音楽を営みたい。
私は才能も素質もないからいつも成果はあがらないが、「時代」の限界をめざしてみたい気持ちは変わらない。


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