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パッケージとしての音楽

textes/思考/音楽

written 2010/3/10


 こんど作ろうと思っているのは、ふっきれたようにPOPな曲だ。
 クラシカルな音楽性を基盤として出発した「断絶詩集」は、「エンドン Endon」を経由して、今度こそシンプルなPOP性に飛躍するだろう。
「Endon」での経験や、構想中のPOPソングを思うにつけ、クラシック音楽とPOPソングの根本的な違いが明らかになってゆく。
 クラシック音楽が、やはり「書かれたもの」(エクリチュール)であるのに対して、POPソングは「包まれたもの」(パッケージ)である。
 POPソングは最初、作曲家によって「書かれる」のだが、アレンジ、演奏、録音、ミキシング等をとおして初めて、完成される。
 最初に「書かれた」メロディーライン、コード進行、歌詞は、その時点で骨格にすぎない。無限のアレンジ可能性がそこに約束されており、アレンジからミキシングにいたる一連の作業によって、それはようやく1個の「POPソング」となるのだ。それらを経なければ「商品」ではない。
 このパッケージング作業は、実際に無限の「リミックス可能性」が証明するように、交換可能なものであって、市場に向けた縦横なイメージ戦略に基づいて、そこからひとつ、選択されるだけだ。

「Endon」も、最初にメロディーを決めた時点で、「書く作業」は終わったな、という感触があった。そこから先は「書くこと」とは別の何かがあるに違いなかった。これはクラシック音楽を意識的に「書く」こととはまるで別の次元に属していると思えた。
 実際「Endon」は、あのようにあるのとは別の仕方で、再パッケージング(リミックス)がいくらでも可能なのだ。このような交換可能性は、クラシック音楽ではゆるされない。
 一方「Zwangsantrieb」のほうは、先日「リミックス」したけれども、あれはそうそう何通りもリミックスできはしないし、もしやるなら、全面的に楽曲を変更することになってしまう。
 だから、POPな楽曲で要求されるのは、緻密な図面を書き込み構築してゆく能力ではなく、1個のパッケージとしていかに洗練させていくかという、テクノロジー的な能力なのだ。

 クラシック音楽のスタイルで私は長年自作曲を探求してきたが、安易な「意味表出性」を避けるため、わざと和声やリズムや構造を「脱臼」させた。そうしていくと、「表出物」としての音楽は、必然的に混乱を呈することになった。つまりエントロピー最大の状態に達してしまったわけだ。
 このような音楽にはまるで社会性、経済性がない。
 パッケージが市場に迎えられるためには、イメージとして記号として、市場のランガージュに組み込まれなければならない。
 すなわちパッケージは、多義的であるよりも、了解容易性を考慮し、ひとつの製品としての効用を獲得しなければならないのだ。そのために、あらゆるテクノロジーが動員されることになるだろう。

 逆に言うと「クラシック音楽」であるためには、パッケージング上のテクノロジーをとりあえず考慮せずに、それ自体が濃密な構造であるように「書かなければ」ならない。そしてそれは、市場のランガージュからいかに絶縁しうるかという挑戦となるはずだ。
 だが、クラシックにはクラシックのランガージュなるものがやはり存在してしまう。
 そこでランガージュの破壊を試みようとすると、ケージ以降の、「実験的な」現代音楽を目指さざるを得なくなってしまうのだろう。
 そもそも私のような孤独なDTMコンポーザーは、作曲ばかりか演奏・ミキシングまで、すべてを同時に行っているわけであり、そうして作り上げた音楽は、本来のクラシック音楽=エクリチュールとは、どこかで違ってしまっているような気がしてならない。

 クラシックとPOPソングのどちらに価値があるか、などという議論には意味がない。
 私たちが求めるもの、それが音楽だ。
 この「私たち」は無名の集団であって、必ずしも多数者ではなく、あいかわらずひとりぽっちなのかもしれない。
 とりあえず私が現在めざそうとしているのは、シンプルなPOPソングだというだけだ。


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