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対象としての女性ボーカル

textes/notes/雑記

written 2010/3/1


 昨日から突然、西野カナさんのファンになった。
 キレイな声で、普通にPOPな軽い歌をうたう音楽性(アルバム「LOVE one.」)が心地よく、さらに動画や写真を見るとなかなかかわいい。完璧な美人という方向ではないが、どこかぽよっとした感じで、指でつついてみたくなる(実際にやったら変質者だが)。
 私はどうやら、メランコリーな気分に支配される時期にはまると、女性シンガーのCDを聴きまくる傾向がある。
 3年前から倖田來未、BONNIE PINK、浜崎あゆみ、the brilliant green(のトミー)、倉木麻衣、いきものがかかり、と遍歴してきて西野カナ。相変わらず男性シンガーにはあまり興味をもたない。昔のRCサクセション(忌野清志郎)、最近のBoom Boom Satellites などは結構聴くけれども、女性シンガーに寄せる憧憬のようなものはない。
 私はさすがに顔で選んではいないので、アイドルみたいのには関心がないのだが、現実的には、これら女性ボーカリストたちは、単なる音楽を超え、固有の記号性を持ってイメージされている。
 これらのノエマが、なぜメランコリーにつきまとうのだろう?

 これらPOPなシンガーたちは、まさにPOPであることによって、普遍的なアイコンと化している。
 POPは、クセの強い音楽とは違い、「多くの人々に受け入れられる」ものだ。このことは、イメージとして逆転し、アイコンとして「多くの人々を受け入れる」包容的な感性の記号 signes となる。
 また、たくさんの人々に支持されるPOPスターを自己の欲望の対象とすることは、自己の欲望とは「他者の欲望」である、というジャック・ラカンのテーゼにも合致するだろう。

「うつ状態」に陥っている私は、絶対的孤独のなかに封じ込められ、自己の力があまりにも弱体化してしまうため、事実、誰かに助けてもらいたいと思っている。この「誰か」は現実界には結局見あたらないため、象徴界における他者=女性(女性は私にとっては究極の他者である)に救いを求めるのではないだろうか。
 この女性イメージはユングの言う「元型」であるかもしれないし、ラカンの言う、乳児期に自己や世界と未分化のものとして存在していた「母親」、幼児期に「父の名」が出現し関係を引き裂かれる前の、「双数的関係」にある母親、こうした神話的「母」という「失われた対象」としての、普遍的イマーゴであるかもしれない。
 無論、私は大人の男性だから、そこに性的対象としての女性像も重なっているのは間違いないが。

 ほんとうはPOPスターたちは手の届かないところにいるのだが、商品化=パッケージ化された彼女たちはジャケット、ポスター、動画、「声」として、自分の周囲に偏在させることが可能なのだ。
 そして、想像界のなかで私は彼女たちに抱擁され、無限に赦されるのである。しかもその抱擁のもとでしか、私は「世界」と再度一体化することはできない。
 肉を持たないこれらのアイコンにすがることで、私は弱体化した自己を慰めようとしているのに違いない。

 あと、先日ネットで発見したゆうさんの歌も、商業的にアイコン化はされていないが、その音楽そのものによって、私のこころによく響くことも、繰り返し書いておきたい。

 3年半前の「うつ発症」時と最近似た状況に陥っているのは、ひとつは上記のような「女性ボーカル」への憧憬、ひとつは「ネット依存」に近い状態が、共通点として浮かび上がっている。
 昨年末から今年1月頃に「おや、なんか調子悪いな」と感じながら、自己の傷を広げるように「断絶詩集」の「強迫欲動」「父の名」と作曲をすすめてきた。
 しかし、オリジナリティのある・冒険性の強い音楽を書けるということは、実はあまり自己が弱まっている時ではないのかもしれない。ただ、その行く先がいい知れない「孤独」だったときに、私はずっと下方に陥落してゆく。
 一昨日「エンドン Endon」を完成させたとき、予想外に最悪の状況が生まれたのではないか。

 他者(受け入れてくれる者)を求め、孤独を逃れようという希望がこの曲を書かせた。「Endon」は既に、あちこちでこれまでになく一般受けしているらしい兆候が(少しだが)見えており、その意味では願いがある程度かなって喜ぶべきはずなのに、なぜかむしろ、逆に「うつ状態」が強まってしまった。
 これはなぜだろう?
 作曲、動画作成という作業による単純な疲労という原因(ストレス)もあるだろうが、それだけではなさそうだ。
「Endon」のような「ふつうの曲」を放つことにより、私はこれまでの自己の流儀を全否定し、一般的なリスナーには接近する一方でクラシック的なリスナーを遠ざけてしまっただけなのではないか。そんな疑問が残っている。ちょっと身なりを変えたところで、10人のうちの1人を棄て4人に迎合しただけなのではないか。10人中9人を満足させる音楽ってのは、商業的パッケージ化のテクノロジーでも動員しない限り、個人の力では相当に難しいだろう。
 いずれにしても、私のやっていることは結局相変わらずだ・・・。
 ここまで来るとあらゆることが悪い方向に作用する。
 誰かに励まされても、褒められても、それは切望したことのはずなのに、反応できない。私の「ふつうの曲」がいいよ、とせっかく誰かが言ってくれても、心の底で私はそれがダメダメだという思いを払拭できない。人のちょっとした言葉を悪く解釈し、傷つき、そこに固着してしまう。人が何もしなくても、勝手に自責して、自ら傷ついてしまう。そしていったん固着すると、「あまり気にしないように」なんて言ってもまるで無効で、どんどん泥沼にはまってゆく。
 メランコリーのこうした執着傾向は恋愛に似ている。
「片時も彼女のことが頭から離れなくて・・・」
 メランコリーにおいてはその執着対象が、限りなく負の値をもった事象に向けられるだけだ。

 昨日だったか、誰かが私の「Endon」のページに、日本語のOS使ってるくせになぜか英語でコメントした。これがどういう意図でのコメントかよくわからなかったが、内容が揶揄のようにも思えたので既に削除しており、残ってない。が、こんなささやかなできごとが、予想以上に私の深層心理にとりついて離れず、猜疑心・被害意識・自己否定感から脱出不可能となってしまった、という事情もあるようだ。

 そういうわけで今日は最悪だった。
「Endon」の暗いメロディーが頭の中で鳴り続けて、ますます憂うつになる。

 しばらくは作曲はおろか本も読めず、ぼーっと女性ボーカルのCD聴いたりネット依存したりするだけになるかもしれない。
 西野カナさんは慰めてくれるだろうか?
 また新しい女性シンガーを発見してゆくことになるだろうか?


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