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パロール、エクリチュールを超えて

textes/notes/音楽

written 2010/2/18


「作品」として受け取られるべき音楽は、たとえばtwitterのタイムライン上を流れていくパロール(個人による話し言葉)と同じようには扱うことができない。
 パロールは絶えず生成・拡散・消滅しながら、社会内のランガージュ(言語の体系)という全体を形成してゆくが、「作品」は、むしろそういった全体性には対立しようとする。
 商業性の強いポピュラーミュージック、メジャーなJ-POPなどでは、互いにほとんど見分けがつかない差異しか持たず、絶え間なく再生産され、流されてゆくことにおいて、ここでいう「作品」とは異なる。それらはむしろパロール的性格を帯びていることになるだろう。
 
 西洋的な文脈で「作品」はまず、エクリチュール(書かれたもの)として成立する。
 エクリチュールはランガージュの流れに拮抗し、パロールが言い尽くせない何かを現出しようとしているのだろうか。エクリチュールとしての「作品」は消滅してゆく流れに逆らい、「時間」から解き放たれようと画策する。それはむしろ空間的な構造の力を利用しようとする(対位法、楽理)。

 が、ここで言っている作品=エクリチュールとは、西洋の近代以降に音楽を構造化した文化の圏内でしか、通用しないかもしれない。
 上記の説明で念頭にあるのは、とりわけ「クラシック音楽」であった。
 一方、民族音楽や古楽等の非西欧音楽においては、西洋的な意味でのエクリチュールの構築性はあまり重視されていない。現在私たちが聴くことができるのは、民衆のあいだで歌い継がれてきたような素朴な歌であり、レトリックで飾り立てられる以前の「音楽」である。・・・根源としての、音楽。
 こうした「歌」はパロールでも、エクリチュールでもない。それは人と人とのあいだに息づく何ものかである。音楽はまだ道具化されておらず、原初のエネルギーとして世に誕生したばかりだ。人と人とのつながり、たくさんの同胞とのつながりが、そこに共有されるものとして「音楽」を手にするのだ。それはある意味では、互いに自己から逸脱した新たな主体性を確立する過程でもある。
 この共有性、間主観性から離れ、それを個人の表現手段、ロジック、レトリックに従属させようとしたとき、西洋における音楽=エクリチュールが始まる。
 いわく、偉大なエクリチュール、偉大な芸術家、偉大な技法。
 だが、それが何だというのか?

 先日紹介したゆうさんの曲「しんかいぎょ」が私に衝撃をもたらしたとき、それは確かに、人と人とのあいだになにか「できごと」が到来したような、そんな瞬間だった。
 街の片隅にいるミュージシャンがパロールとして歌を放つ。しかしそれは結局個人的なつぶやきではない。それは共有されるべきもの=音楽の共通言語の範疇にあり、確かに一般的なPOPミュージックのランガージュ/文法に従ってはいる。が、人々のあいだをすさまじい勢いで流れていく、いわゆるメジャーなJ-POP=パロールと異なるのは、それがまだ商業的なレトリックに染まっておらず、人が音楽に向かう衝動そのものが、あらあらしく・生々しく露出している点だ。
 この「しんかいぎょ」は、もしプロフェッショナルにプロデュースし直されるとしたら、たぶん後半部にストリングスが加えられるだろう。あるいはドラムスも入れられるかもしれない。「ああー」という高音部(D-C)のフォルテはやや強すぎるとされ、微妙にピッチも落ちるからテイクを取り直しされるかもしれない。そして全体の音圧をある程度そろえるようにミキシングされるに違いない。
 ・・・だが、そうやってしまっては、何もかも台無しだという気がする。
 商業的なレトリック(現在のPOPの標準的な操作規範)で固めてしまっては、ここにある、何か大切なものが決定的に失われてしまう。
 そうして、何かが丸め込まれ、パロールの巨大な流れの中に投げ込まれてしまうのではないかという気がしてならない。
 逆に言えば、ゆうさんの歌が私に与えた衝撃は、歌詞や情感といったことの他に、そのようなレトリックで飾り立てられる以前の「生(なま)の音楽」としてのあり方、そこに理由があるのではないか。このシンプルな音楽のなかでむき出しに提示された生の他者との出会いが、私をすくませたのではなかったか。

 つまりある種の「常套語法」は、「作品」をパロール化し、巨大な音楽産業の内部で共有されるランガージュに吸収させてしまう、という作用を意図しているのではないだろうか?
 音楽産業が産出する「パッケージ」は、無数のレトリックの技法でカドを落とされている。丸くなって社会になじんでしまった作品=パッケージは、その完璧で凡庸なランガージュにぴったりと押し込められる。そしてそれは無限にコピー・再生産可能であり、だからこんにち無数のミュージシャンによるパロールが、共有された「時間」の中をひたすら流れ続けることになるのではないか。

* * *

 かなり混乱した文章になってしまったが、あえて図式的にまとめるとこうなる。
 
(1)商業的なPOP―常套的レトリック―パロールとしての音楽―「時間」の流れとして絶え間なく過ぎ去る
 
(2)クラシックのような西洋の近代音楽―エクリチュールとしての音楽―「時間」に対立し「空間」的な構築性をめざす

(3)商業的レトリック以前の音楽―たとえば民族音楽的原始性(根源性)―人と人との「あいだ」に存在する―他者性の音楽?―「生(なま)の音楽」?

 私が脱却しなければならないのは(2)のレベルだ。が、(3)の本質についてはまだ考察不足。レトリックに頼らずに他者との「あいだ」に立つためにはどうしたらいいのだろう?


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