Twitterの現象学とメランコリー
textes/思考
written 2010/2/10
ここ数ヶ月木村敏氏の著作を読みふけり、そのユニークな哲学的(ハイデッガー由来の現象学的)精神病理学に心惹かれている。
木村氏によると、「自己(主体)」は、生物学的個体そのものの「うちに」あるのではなく、個体と他者との「あいだ」に生まれ来る。自己/主体は差異に基づいてしか実存しえないので、自同性に閉じこもっている限り発生しない。自己という主体も、他者という主体も、「あいだ」において、相互に出現するのである。
自己ははじめから「自己」として与えられているのではない。(中略)自己はまず「自己でない」状態から「自己になる」という仕方で獲得されなければならない。
この「自己でない」状態とは、自己と非自己とが分化差別される以前の直接無媒介的一者を指していて、この自己以前の一者とは、自己と非自己とがそこから分離対立したのちは、両者の「あいだ」として顕現してくる雰囲気的現実性である。このいわば「あいだ以前」のノエシス的状態から、そのつどの自己が(中略)ノエマ的に実現される。自己が自己であるためには、自己はまず自己自身へと到来しなくてはならない。
自己とか自分とかいわれるものの存在の根拠が、というよりもむしろ、自己とか自分とかいわれることそれ自体が、私という個人の内部にはなくて、私と他人との、総じて人と人との「あいだ」にあるのだということ・・・(後略)
木村敏「「あいだ」と「ま」」(1977)『自分ということ (ちくま学芸文庫)』所収 木村敏氏は構造主義に対してはある程度批判的だが、構造主義の核心である「言語(学)」については、私はこの「あいだ」の理論が重要になると思う。
個人によって発せられる言葉=パロールは発せられるや否や、ただちに「自己」の所有を離れ、他者(たち)との「あいだ」に流れ込んでゆく。
この「あいだ」のパロールの流れが、構造主義的にはランガージュに支配されてゆくのだろうが、とりあえず、この「あいだを流れてゆくもの」に身を寄せながら、私たちは生きている。近現代文化においては、パロールこそが日常性であり、生活であり、われわれの共同幻想であり、「時間」そのものなのだ。
ネットにおける言語体験のありようも、パロールの軽やかさ・「あいだ」の方へどんどん向かっているように見える。
古くからの「ホームページ」やブログ、あるいはmixiのようなSNSではまだ、個体としての「自己」にパロールはつなぎ止められており、まだ「人間」のなまなましい体温が隣人にも伝わりそうだった。それに対し、ある種の掲示板や、ことにTwitterにおいては、発せられる言葉はただちに「タイムライン(TL)」という、まさに流れゆく「時間」そのものの中に投げ込まれ、個々の言葉としてはあっというまにはかなく消えてゆきつつ、人々の「あいだ」にゆるやかなコミュニケーションが(ときどき)形成される。
が、ここではコミュニケーションそのものは露骨に要求されていない。「つぶやき」を原則とする以上、言葉はコミュニケーションの道具として活用されるのではなく、パロールの流れとして「あいだ」に形成される間主観性・時間性を現出させるために、まさに放たれるのだ。放たれた言語はもはや個体的な「自己」にも「他者」にも属していない。どこにも属し得ない偶然性として、生み出されてゆく「持続」ないし「時間」に飲み込まれてゆくだけだ(あえてこのパロールの所有者を問うならば、ランガージュということになろう)。Twitterはこのように極めて現代的な社会体制を暗示しているのだ。
誰をフォロー(=他人の「つぶやき」を自分のタイムラインに表示すること)し、誰にフォローされているかによってユーザー一人一人の「タイムライン」の様態は異なる。私などは始めたばかりだし、どちらもごく少ないから、いたって静かな「流れ」となっているが、大量にフォローしているような方のTwitter画面は、どんなすごいことになっているのか想像もできない。
このように「タイムライン」の様態がそれぞれのユーザーにとってまったく異なる点が、チャットと違う。チャットや掲示板との違いは、Twitterに現出する「時間」が、基本的に共同のものではないという点だ。そこには共有性があるようでなく、ないようである。掲示板が田舎的(=共同体的)であるのに対し、Twitterは都市的である。雑踏のなかでほんのときおり、つぶやきが交錯するような、ゆるやかな共同体意識なのである。それはちょうど、DSのドラクエを持った人々が、互いに「人間的」コミュニケーションをとるでもなく、仮想的世界でのみ、わずかな記号の交換を楽しむ、都市の路上に似ている。だからそこでの発話は、あくまで「つぶやき」にしか過ぎないのである。
Twitterのインターフェイスにおいて、眼前に更新されてゆく「タイムライン」、木村敏氏の思想から敷衍すると、まさにこれが、「私」である。私の自己は、パロールとして漂う自分の/他者の言葉の、無数の差異に基づいて立ち現れてくる。繰り返すが、差異の現前なくして主体は存在しないのだ。
* * *
さて木村敏氏の精神病理学に戻ってみるが、「あいだ」における(共通感覚的な)統合性が損なわれるのが「離人症」で、他者や世界との「あいだ」の様態が全面的に異常を来し主体性が機能不全に陥った結果、人格的崩壊にまで及ぶのが「統合失調症」である。
一方「うつ」に至るメランコリー親和型の人間は、特有の秩序志向(役割関係の社会観)によって他者を位置づけようとし、そうした努力が結局は挫折するという(テレンバッハ、クラウス)。他者の他者性を意識し得ない点で、事実上、メランコリー親和型は「自閉的」である。「うつ病」になると、完全に他者への関心を失ってしまう(うつ病性自閉)。
木村敏氏の病理学はむしろ統合失調症(分裂病)が関心の中心なので、「うつ」に関しては残念ながら最後まで追究しきれていないようにも思える。これは木村敏氏に限らず、精神病理学全体に言えることだが、「うつ」はあまりにも「わかりやすすぎる」ように見えてしまうので、さほど深く研究されずに終わってしまうのだろう。
うつは一見単純だ。うつとはこういうものだと一般的に考えられているところに、精神科医がつけ加えるのは「自律神経症状」の存在である。
ナシア・ガミー『現代精神医学原論』(2007)村井俊哉訳、みすず書房 現在まさにメランコリー的な状況にある私自身から見ると、この「いま」を特徴づけているのは、他者とのコミュニケーションに埋没したい、誰かとつながりたい、他者を引き寄せたい・他者の側に寄って行きたいという気持ち、切迫した「寂しさ」を持ちながら、どうしても他者との「あいだ」を維持・展開させられず、そこで失望し、脱力し、無力に陥り、自ら退却してしまう「時間の停滞」にあることは間違いない。この退却によって、「あいだ」における自己は失敗し、だから、自分を消し去りたい心情に突き動かされるのだ。
他者とのあいだにうまく「間を持てない」というのは、統合失調症の病前状況として著しく特徴的らしいが、この状態は私にもぴったりあてはまる。それは「自閉的」なのではなくて、関係という困難さ(不可能さ)の露呈であろう。
また「うつ」症状としてよく知られる「過去の特定の事象への、無意識的・強迫的な拘泥」も、時間の停滞、流れの寸断を決定的にする。
私が「うつ」だという診断が正しいとすれば、「うつ」とは、もともと他者に無関心なのではなく、他者への希求がなにかによって失敗し、「あいだ」における自己が破綻することによって、「身動きできない」停滞の中で自己撞着に押しつぶされる状態である。この自己撞着の意識の強さ・あるいはそのポジションが、統合失調症とは異なっているのではないだろうか。
Twitterのタイムラインは、私には、そこでは到底自己を実現し得ないような、自分から隔絶した画面のようにも、しばしば見える。パロールが、無関係なものとしてつぎつぎと離れていく。他者は見失われる。自己形成の、挫折。私はここでもまた、失敗するのだろうか。やはり、すべては既に失敗しているのだろうか。
しかし、本文の主旨をはなれ既にメランコリーにこだわりすぎた。それについては改めて考察した方がよい。
「あいだの音楽」についても考察したかったが、次回に回そう。
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