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悪循環

textes/notes/雑記

written 2010/1/11


 年末頃から3年ぶりに、かなり心的な調子が悪かった。3年前と似たような(ずっと軽度な内容だが)職場での人間関係上のトラブルを自ら誘発し、引き続いて自殺念慮にとらわれた。作曲中の作品の(歌詞の)内容もよくなかったし、悪天候が続き路面状況が悪化して、通勤での運転に強い不安を強いられていたことも悪かったのだろう。
 新しい曲集「断絶詩集」の2曲目を制作中でそろそろ完成しそうな勢いだが、心的状況の悪化によっていささか苦労した。
 それでも、抗うつ剤を継続し、この連休を通して少しリラックスしたところ、だいぶん良くなったようだ。天気がよいせいかもしれない。そのかわり、これも久しぶりの「腰痛」に襲われ、長時間作曲に専念できない。
 2曲目「父の名」の公開まではもうちょっと時間が必要だ。

 いつも作曲し始めると、かなりの時間と労力を割いて必死になる。まったく作曲していない時期にはない、強烈な「焦燥感」である。
 いったん作曲を開始した以上、自分は「負い目を負っている」ことになり、そこから脱出するためには曲を完成させてしまうほかない。ところが、一曲できあがっても、今度は「果たし得なかったこと」についての負い目が発生するので、またもや焦燥感から、必死で曲を書き続ける。
 おまけに、書いている曲自体が、自分の特異な個人的趣味や思想に彩られており、書けば書くほど、聴いてくれる人はいなくなり、評判は墜ちていく一方だ。要するに自分が懸命になればなるほど、みんなが私のもとを去ってゆく。だれもいなくなってゆく場所で、私はますます孤独を深めながら書き続ける。そのような、「愛されない」地点へと、自分を追い詰めているのだ。
 こうした悪循環こそが、メランコリー親和型における、インクルデンツ-レマネンツ的な前メランコリー状況(テレンバッハ『メランコリー』、木村敏訳 みすず書房)なのである。

 年末頃から木村敏氏の『あいだ』『自己・あいだ・時間』といった哲学的でちょっと難解な現象学的精神病理学の著作に改めて熱中し(木村敏氏の本は過去にも読んだことはあった)、ついで高額ながらネット古書店でフーベルトゥス・テレンバッハ『メランコリー』(木村敏訳、みすず書房)を買い、読みふけったのである。
 テレンバッハのは原著が初版1961-第3版1976年と古いものだが、非常に奥深い知見の散りばめられた、かけがえのない本だと思う。医者もカウンセラーも指摘してくれなかった重要な点を、患者としての私はこの本でやっと知り得たのである。カウンセラーもくだらない教科書に頼ってないで、こういう哲学っぽい本を読んで欲しい。
 というわけで、この本が絶版になっているのは、日本の精神医学界にとって甚大なる損失である。「復刊ドットコム」に投票ページを作ってみたので、みなさん投票してください。
 http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=49191
 で、この本の具体的な内容については・・・追い追い書いていきます。とりあえず私は、自分の「絶望」状況(非決定のなかで身動きできない状況)、および「自己と自己自身との関係の障碍」に関して、おおきなヒントを得たと思っている。


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