攻撃的メランコリー(症例nt)
textes/notes/雑記
written 2009/11/29
2006年に心療内科で(軽症の)うつと診断され、未だに薬を飲んでいるのだが、これは服薬を止めると3日後くらいにはめまいと頭痛に襲われ、かつ、夜も眠れなくなってしまうためで、現在抑うつ的な気分などは特にない。医者に言わせるとこの「めまい」はストレスによって自律神経が変調をきたすのだということだが、どうも私はあまり信じていない。
最初から本当に私は「うつ」だったのかと疑っている。
なにしろ、3年前緊張して病院に行ったら、心理テストのようなものもなく、簡単に概略を聞いて「まあ、うつですね」などと簡単に診断され、抗うつ剤(ジェイゾロフト)を処方されただけだ。その後は特に心理療法などもなく、毎回、ごく簡単に様子を聞かれ適当に答えると同じ薬をまたくれる。診察時間はいつも3分以内だ。その後こちらからカウンセリングを希望し、何度か実施してもらったが、まあ、それはおもしろい経験ではあった。心理療法士については、彼らのかじっている心理学なんてものは、私はあまりすごいものだと思っていないので、経験してみたいという以上の期待もなかった。
抗うつ剤
「抗うつ剤」の登場によって、どうも軽症精神疾患の診療はかんたんなものになってしまった。
実際に「抗うつ剤」によってうつ病が治るケースは多いらしい。脳内のセロトニンを操作することで症状をある程度抑制できるということだが、薬を渡して、ハイ終わり、みたいな安直な医者が出てくるのは困ったものだ。近年軽度の患者が多く医者も忙しいのはわかるが、なんだかカネをかけるのが馬鹿らしくなってくるような、冷たいあしらいだ。
だいたい、自殺念慮があるというだけで、何でもかんでも「うつ病」にしてしまっているのではないか(自殺の可能性を示唆している者をつっぱねて、本当に自殺されてしまうと病院は困るわけだ)。本当は「うつ病」という病気カテゴリー自体が複合的だったり多義的だったりするように見えるし、こと精神病・神経症に限って言えば、「こんにちの医学」もたいして進歩してはいない。
精神疾患なんてのも、今じゃ薬で治るのよ、などと考えるのはどうしようもない素人どもである。
ぜんたいに、素人は「科学の進歩」を過信しすぎる。
少なくとも心的な現象に関する限り、「肝心なことは、いまだになんにもわかっていない」と言ったほうがいい。
最近はやたらと本を書きとばしてTVにも顔を出す「脳科学者」もいるようだが、脳科学も、人間の心的な核心を解明できたわけでは、まるでない。ただ、素人には「なにがわからないか」じっくり考えることができないので、「医学」「科学」には両手を挙げて降参し、そこでは何でもわかってるんだという神話を擁護することで、安心感を得ようとする。
だが、いまだに、肝心なことはまるでわかっていないのだ。わかったような顔をして儲けようとしている奴らがいるだけだ。
さて抗うつ剤についても、私はあまりこれを過信するのはどうかという気がする。脳内の神経伝達物質を薬物で左右しようという試みは、実験の段階からそう遠くまで来ていないのではないか? まだ十分に解明されていないモノをちょっといじってみよう、という感じで、経験的に「だいたい治るみたいだからいいじゃん」みたいないいかげんさも感じる。
私自身が抗うつ剤を飲んでみての感想を言うと、これといってめざましい効果はない。ちょっと、あたまがぼうっとなる。結果的に、気にかかることを執拗に考えてしまう傾向を抑えようとするらしいが、その効果はさほど強くない。
ただ、寝付きが悪かったり、やたら早朝に目覚めてしまうめんどうな癖はおさまる。(これは一緒に飲んでいるエリスパンやミラドールの効果かもしれない。)
この点だけはありがたい。というか、睡眠薬をもらえばそれで済むのかもしれないが。
自分が「うつ病でないような気がする」とずっと考えてきたのは、一般にうつ病というと無力感・自責感ばかりが強く、他者への攻撃という要素が介入するイメージがないせいだ。私の場合、自責的・絶望的な部分と同時に、特定の他者に対する激越な憎しみと、実際の「攻撃」が頻出したのである。
何かの拍子に誰かに対し怒りを覚える。すると、その情念が夜寝ようとしている矢先に燃えはじめ、布団の中で憎悪衝動に悶々としてまったく眠れなくなってしまう。
この攻撃衝動は暴力イメージに向かうもので、強い欲動として心に固着し、日中に下手をすると本当に暴力沙汰になりかねないものだ。よく今まで傷害・殺人事件にまで発展しなかったものである。
実はこの攻撃衝動、憎しみの爆発は、現在でもたまにある。抑うつ気分はほぼ全くないが、こちらの方は強烈に残っている。
こういった強い能動的な衝動が、なんとなく「うつ」にはふさわしく思えないので、私は自分がもしかしたら「境界例・境界性人格障害」に近いのではないかという疑いも持ったことがある。
しかし、精神分析の領域においては、どうやら「攻撃性」という症候はメランコリー(うつ病)に含まれており、攻撃性の転移によって自己懲罰の機制が生まれると考えられているようだ。
(メランコリーになる機縁を経て)対象への愛は棄てきれないで対象だけが棄てられるのだが、この対象愛が自己愛的な同一視に逃げて対象が自我にとりいれられると、あらわにこの代理の対象にたいし憎しみがはたらき、それを侮辱し、苦しめ、この苦悩にたいしてサディズム的な満足をえる。メランコリー患者は疑いもなく自分の苦悩を楽しんでいるが、このことは強迫神経症に見られるサディズム的意向と憎悪の意向との自己満足という現象によく一致している。
ジークムント・フロイト「悲哀とメランコリー」(1917) 井村恒郎訳、人文書院『フロイト著作集6』しかし英米では「うつ病の攻撃性」はよく言われているらしいが、どうやら日本ではあまり問題になっていないようだ。
うつ病の力動的・精神分析的研究がかねてから一つの問題として重視してきた攻撃性は、わが国のメランコリー親和型性格に限っていうなら、あからさまに表に出されることはまれである。
・・・
わが国のメランコリー親和型性格者は原則として攻撃性を表面に出さない。これを、この性格が社会的規範との強い同化を通じて形成されたために生じた強力な抑圧機制の故とみるか、あるいは生来の弱力性とみるか。前者を決して無視しえないが、後者の要因も忘れられてはならない、と考える。
ちなみに引用文中の「メランコリー親和型性格」とは、テレンバッハによる指摘らしいが「律儀、正直、真面目、仕事熱心、責任感、仕事の入念さ、時間厳守」「他者中心の秩序愛」などとされており、これが「うつ病」の病前性格としていちばん多いらしい。まあまあ、私に当てはまっているかもしれない。
それはともかく、うつ病(メランコリー)に関していろいろ読んでみたが、私に一番ぴんと来たのはフロイトの解釈である。上記論文は自己(主体)-他者(対象)、愛-憎しみという対立する2項目の病理的な相互の入れ替わりが見られ、なるほどラカン的である。
つまりフロイトの図式では
他者(対象)への愛が何らかの状況で破綻、喪失
↓
自己へ向かう愛
↓
自己へ向かう憎しみ
といった変遷を通過する。この憎しみが別の他者に転移されるとすると、私の攻撃衝動も説明できる。
2006年に私が「うつ」を診断されたのは夏だったが、その2ヶ月前に重度の統合失調症だった姉がガンで死に、その2ヶ月後に、以前から闘病していた父が、やはりガンで死んだ。
このふたつの(同じガンによる)死にはさまれて演じられた私の悲壮な「劇」は、そのシンメトリーがいかにも物語性を喚起している。
私の2歳上の姉は、確か彼女が高校の頃に統合失調症(精神分裂病)になった。
ことの始まりは妊娠-中絶だった。それが親に発覚し、父は激しく怒り、暴力をもって姉に懲罰を与えた。父は怒りに顔をどす黒くさせ、木刀を持って居間をのし歩いた。泣きわめきながら姉は抵抗する。暴力シーン。ガラスが割れる。
破片が、散らばる。
そして姉は2階の自室に籠もる。階下では父がまだ木刀を手に待ち構えているからだ。姉は1階のトイレに行くこともできないので、自室で、ペットボトルの中へ小用を済ませていたらしい。
やがて姉は高校を中退し、忽然と姿を消す。
どうやら札幌で、なんとかいう怪しい新興宗教に入ったらしい。彼女はなにやらぶつぶつつぶやきながら、街をさまようようになった。そして路上で、彼女は突然何やら叫ぶ。
警察に保護され、両親が姉を引き取りにいった。
そして姉は「精神分裂病」になったのだ。
この頃、私は既に大学生になり、故郷を去っていた。発病前後の話はあとで聞いただけだ。
姉は妄想にとらわれ、幻視・幻聴にまどわされているようだった。
「このハサミ」と彼女は帰省中の私に、なにかおびえたように言う。「このハサミ、お父さんとお母さんじゃないよね?」
私は何も答えない。当時は精神疾患についてさほど興味もなく、知識がないためにどう受け止めていいかわからなかったのだ。そして私は無言で姉の元を去る。
姉は精神科にときおり入院したが、家(実家)にいることもあった。
処方された薬をみると、ものすごく大量のもので、彼女自身が「わたしは薬漬け」と言っていた。幻覚を抑える薬もあったろうが、それでも彼女は幻覚から逃れることはできなかった。薬の副作用で、ただ1日中ごろごろしていた。(このこともあるので、私は精神病での薬理学をあまり信用できないのだ。)
結局、発病後姉はまったくよくならず、もちろん結婚などできるわけもなく、2006年を迎えた。そして突如発見された「ガン」はすでに手遅れで、あっというまに彼女の全身をむしばんだ。
父の方は十年も前からガンと闘っていたが、彼女のガンとの闘いは短く、あまりにもあっけないままだった。彼女は2006年6月に、幻想にまみれたまま死んだ。
彼女が発病したそもそもの機縁は妊娠-中絶時のごたごただったと私は考えていた。だから、「姉の病気は父のせいだ」という思いをずっと持っていた。
思うに、兄弟姉妹というのは、たいてい、自己の「分身」である。共におなじ父-母に支配されて育ってきた、容易に同一化される分身なのだ。
だから、私は姉である。
私=姉は父から暴行を受けることによって病に陥る。私=姉は父への復讐をねがう。私は成人以来父に反抗し続けたが、それは復讐だったのだと思う。そして、その復讐の延長として、いっそう姉と同化するため、私はうつ病になる。統合失調症にはさすがになることができないので、うつ病だっただけだ。
しかしこれは一面に過ぎない。
私は一方で、父と同化し、共に姉を責める。
責めさいなむ者、暴力をふるう者として、私=父は、姉を徹底的に攻撃するのである。
そこで私は攻める者であると同時に、攻められる者として永遠に自己を劇化しなければならないのだ。この宿命が、2006年という年の正体であり、またそれはいまだに続いている。
さらに、両者に同一化し、両者を交互に責めることによって、二人に死をもたらしたのだとも言える。
つまり、私は父となって姉を責め殺し、その復讐に、姉となって父を責め殺したのではないか。二人を殺したのは私なのかもしれなかった。だから私は逃亡し、「うつ病」という隠れ家を求めたのか。あるいは、これらの罪状の懲罰として、いまの私があるのか。
フロイトによると、エディプス・コンプレックスが解決し消滅するとき、「父」イマーゴから分離しさらに発達した「超自我」が、社会的道徳性へと転化する。
だがこの超自我と自我ないしエスが、いつまでも責め-責められるどうどうめぐりの劇を演じ続けたらどうだろう。私は永遠にカラカラと回転し続ける。なぜなら私は父であると同時に姉でもあって、あの砕け散ったガラスの破片をいつでも頭上に載せているのである。
まる2日薬を飲んでいないので、いまも頭痛とめまいがしている。
参考文献:
『フロイト著作集』人文書院
ジャック・ラカン『精神病』ジャック-アラン・ミレール編 小出浩之ほか訳 岩波書店
ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』ジャック-アラン・ミレール編 小出浩之ほか訳 岩波書店
ジョゼフ・ルドゥー『シナプスが人格をつくる』森憲作監修 谷垣暁美訳 みすず書房
トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』柴田裕之訳 紀伊國屋書店
笠原嘉『うつ病臨床のエッセンス』みすず書房
笠原嘉『軽症うつ病』講談社現代新書
片田珠美『薬でうつは治るのか?』洋泉社新書y
ほか
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